書きそびれたこと

2005年になった。クリスマスも大晦日もきちんとした記憶がないというのに、まったく、困ったものだ。考えてみれば去年は身の回りで困ったことばかり起きていた気がするし、そういったことへの防衛本能が記憶をものの見事にかき消してくれたのかもしれない。全て覚えているというわけには、人間、きっといかないのだろうと思ったりする。
で、新年早々反省なのだけれど、去年書きそびれたことを思い出すまま、羅列。
ナインティナイン
これはわりとずっと心に引っかかっていたのだけれど、しっかりと考えるための素材や時間を探せずに、結局面倒くさくなって頓挫。27時間テレビその他で去年も露出は多かったと思うけれど、残念。時機を逸した感じがするので今後考えることもないと思う。
・映画の感想
見たのに感想も書かなかった映画が多い。最近ので言うと、『オールド・ボーイ』とか『僕の彼女を紹介します』とか。なんだか韓国映画が並んだけれどたまたま。韓国映画を見るわりに、韓国ドラマは一本も見たことがない。とりあえず、書きっぱなしで途中になっている『雲のむこう、約束の場所』をなんとかしたいのだけど、もうどうにも飽きてしまった。
・本の感想
去年の後半は小説というより人文科学系の本を読んでいたのだけど、どれもこれも途中で投げ出して積読状態。一冊一冊処理しなければ。そういえばデリダソンタグも死んだ。考えることが不毛な時代状況というか、不毛に思わせる圧迫感みたいなものが続いている気がする。神様を放り出して、羊たちは夢の入り口を迷い続けるわけだ。
つくば市について
これも選挙があるというのでぼんやり知っていることを書いていたけれど、その選挙結果を受けての感想を何も書いていない。



とまあ、こんな感じ。
思い出したときにでも書けるようにしよう、と。


『南十字星』

ぼくはミュージカルというのが食わず嫌いで、いままで何かそういうものを見た記憶がないのだけど、先週ちょっとした友達関係上の付き合いというやつで浜松町へと足を運んだ。劇団四季のオリジナルミュージカル『南十字星』を見るためである。
で、見た。感想をほんの少し。
なんというか、あまりに単純で一本気なストーリーで、もう途中からは「とりあえず笑っとけ」という感じ。怪我をして病床の主人公がいきなりいい声で歌い出すなんていうのはまあご愛嬌だろうけど、ストーリーがあまりにひどい。第二次大戦中のインドネシアでの日本軍将校の話なのだけど、どこが起承転結なのだかまるで分からず、兄弟関係を描きたいのか、恋愛関係が描きたいのか、「日本軍は現地でいいこともしましたよ」って言いたいだけなのか、何もかもが中途半端。あげくラストはケチャを踊り出したり(いくら舞台栄えする要素だけ抜き出したにしても、インドネシアの扱い方がひどすぎる)、処刑される主人公が「これからの日本を背負って立つきみたちへ」みたいな父親気取りのモノローグをはじめたり、あらゆる点で混乱している。
ストーリーではなく、一方的なメッセージだけがあるような舞台だった*1。説教臭いのだ。もちろん、これでは効率よくちゃんと観客を泣かせることなどできるわけがない。
収穫:劇団四季のオリジナルミュージカルはやめておいたほうがいい。


*1:そのメッセージの拙さや問題性については、正直書くほどのものでもない

『雲のむこう、約束の場所』(2)

総合病院、耳鼻咽喉医院、歯医者と、ここのところ医者をハシゴ状態。ここ何年も医者にかかったことがなかったので、どうも勝手が分からず居心地が悪い。もっとも、医者にかかって心地いいなんていうのはあんまりないのだろうけど。ウチじゃ聞いてもらえないのでちょっと調子が悪いくらいでも病院に与太話をしに来るお年寄りくらいか。
で、そういうお年寄りから最も遠いところにある映画、『雲のむこう、約束の場所』の感想である。間が空きすぎたせいで、見たあとで何を考えたのかすっかり忘れてしまったけれど。
(2)
この映画の核にある構造を簡単に言うならば、それはここのブログでも以前に述べたドニ・ド・ルージュモン的ロマンティック・ラブの、現実世界への短絡である。
ロマンティック・ラブの要点のひとつは、恋愛感情の投影先の存在が肥大化し*1、それが「世界の全て」となってしまうところにある。それは自己の観念の肥大化でもあるため、当事者は永遠に満たされない。結果、ロマンティック・ラブは死へと帰結する。
こうしたロマンティック・ラブの一元論的な構造に対し、『雲のむこう、約束の場所』の構造は二項対立的、あるいは弁証法的である。
前者は「彼女(彼)*2が世界の全て」であるのに対し、この映画の中では「サユリ*3を救うのか、それとも世界を救うのか」という問いが主人公に突きつけられる。ストーリー上では、世界を滅ぼす可能性のある「塔の活動」と「サユリの眠り」とがシンクロしており、サユリを目覚めさせることが世界を滅ぼすことに繋がっているのである。
なぜ「塔の活動」と「サユリの眠り」とがシンクロしているかについての説明には、この映画の中でさほど重点が置かれていない(せいぜい塔の設計者とサユリとが血縁関係にあるくらいの説明である)。つまり、ここの部分については「そういうもの」として処理されているわけだ。これは「ほしのこえ」で、はるか宇宙で戦わなければならないのが「なぜヒロインなのか」が簡単に処理されていたのと同じである。「そういうもの」なのである。
問題は、「そういうもの」によって彼女が主人公から決定的に切り離されているということである。このことが「彼女」と「世界」とを「並べて」置くことを可能にする。当たり前の話だけど、世界の中の存在である限り、世界と並列的な関係をとることはできない。世界から切り離されて初めて並列関係が成立するのである。

飽きてきたけど、まだ続く。


*1:それはもちろん自己の観念の肥大化である

*2:そして私

*3:ヒロイン

『雲のむこう、約束の場所』(1)

何度か風邪をひいて、また調子が悪くなっておとなしく横になっていたら違う病気だった。病院にいって、違う診察科薦められて、そこで診てもらって分かった。
病院とかいかない限りは、「ぜんぶ風邪」なんだよね。名前を付けるとか、名前が付くことの意味っていうのは、やっぱりこのへんから発生しているんだなあなどとしみじみ。
つうか、ここんとこ身体弱すぎです。
観た映画を思い出しながら。


渋谷シネマライズ。昔は本当によく行ったけれど、実のところあまり好きな映画館ではない。一階席から見上げる角度、二階席から見下ろす角度、どちらもぼくには中途半端で、予告編の間に酔ったような感じになる。まあ、それ以上に渋谷の駅を降りてセンター街をくぐりスペイン坂を登るという、その道が苦手なのだけど。
さて、『雲のむこう、約束の場所』(監督:新海誠)である。
前作『ほしのこえ』は好きな映画だ。余計なものを全てそぎ落とした純粋な線形が醸し出すポエジーが見事に表現されていたし、「世界」のために離れていく「距離」と、しかしその「世界」ゆえにつながっている「距離」という二重性が主人公たちの「意志」を鮮やかに浮かび上がらせるという構図もうまくできていたし心に残った。今回の『雲のむこう、約束の場所』のためにもう一度見ておいたのだけど、そうした思いはいまも変わらない。
その印象を抱えて渋谷に行ったわけである。以下、感想。ネタバレあり。
(1)
まず最初の三十分間ほど、つまり中学時代のヒロキとタクヤとサユリのシーンは、ぼくにとってはとても退屈だった。なんというか、この部分は見ている間から(例えばナレーション*1の視点などによって)はっきりと「前フリ」だと分かるわけで。前フリは必要だし悪くないのだけど、同じタイミングで話し出すシーンなどなどの青春的符丁は、もはやベタベタを通り越して本当に記号のようにしか(ぼくには)見えなかったわけで。



首が重い。次回へ続く。


*1:ヒロキの声。吉岡秀隆が演じる

費用対効果

どうも調子が悪く、日記すら書けない。
このかん見た映画は、『雲のむこう、約束の場所』と『オールド・ボーイ』、読んだ本は柴田錬三郎『江戸っ子侍』と大塚英志物語消滅論』。積読のボリュームは着実に増えている。せめて映画だけでもはやめに感想を書いておこう。でないと忘れる。
昨日、新宿駅で切符を買い足早に改札に向かっていると「すいません。財布落としてしまって。210円貸してくれませんか?」と女の人に声をかけられた。ぼくは本当に急いでいて、でもその声が本当に切羽詰っている感じだったので自分の財布を開くと小銭がない。しかたないので野口英世を一枚渡した。で、立ち去ろうとすると「あの、おつりは?」と訊かれたので、「急いでいるからいいよ」と手を上げて改札に向かって走った。目の片隅で深々と頭を下げる彼女が見えた。
まあ、彼女が本当に財布を落としたのかどうかは分からなかったりするけど、210円っていうのはなんかリアルだったし、それにその後の爽快感はちょっとひさしぶりだったので素直にいいことをしたと思っておく。
ちょっとカッコよかったし。
それにしても、今回の新札の流通速度は相当なものだと個人的には思っていて、いまぼくの財布のお札は(数は少ないが)すべて新札だったりする。
そういえば、いまだに数えるくらいしか二千円札にはお目にかかっていない。


嫌いな新聞

嫌いな新聞社というのがあるわけじゃない。ただ、嫌いな記事というかおかしい記事というのは確かにあって、そういう記事が「多い」のはたいてい同じ新聞社だったりする。ここでぼくが「おかしい」というのは、例えば視点が狭いとか、その方向が偏っているとかそういうことだ。
例えばこの記事。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041126-00000011-san-int
何が「おかしい」か、よく読めば分かるだいたいの人は分かると思うのだけど。
ちなみに、相当仲のいい友達が新卒でこの会社に入って、で去年辞めたのだけど、正直ちょっと心の中で「助かった」と思った。会話主義者(?)なぼくは。


読んだ本のメモ

金子勝、アンドリュー・デウィット、藤原帰一宮台真司『不安の正体!』(筑摩書房)。内容的にはそれほど目新しさはないけど分かりやすい内容なので、まあ「アメリカとか日本とか、政治とか経済とかいうんだったら、これくらいは読んでおいてそれから話し始めようぜ」的な、認識入門書みたいなものか。
この本は去年の対談を元にしているために、アメリカの自浄作用・スウィングバック(の可能性)についてたびたび論じられている。
けれど、実際はブッシュが再選したし、そしていままた、
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041116-00000027-kyodo-int
のニュースのように、パウエルが国務長官を辞めるというように、状況はますます悪化しているように見える*1。どうせならこのタイミングで再び、同じメンバーを集めて対談をして欲しいものだ。それほど話す内容は変わらないだろうけれど。


*1:チェイニーが軽く倒れたらしいが、そのレベルで喜んでしまえるくらいに、政治的に希望がない