『雲のむこう、約束の場所』(2)

総合病院、耳鼻咽喉医院、歯医者と、ここのところ医者をハシゴ状態。ここ何年も医者にかかったことがなかったので、どうも勝手が分からず居心地が悪い。もっとも、医者にかかって心地いいなんていうのはあんまりないのだろうけど。ウチじゃ聞いてもらえないのでちょっと調子が悪いくらいでも病院に与太話をしに来るお年寄りくらいか。
で、そういうお年寄りから最も遠いところにある映画、『雲のむこう、約束の場所』の感想である。間が空きすぎたせいで、見たあとで何を考えたのかすっかり忘れてしまったけれど。
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この映画の核にある構造を簡単に言うならば、それはここのブログでも以前に述べたドニ・ド・ルージュモン的ロマンティック・ラブの、現実世界への短絡である。
ロマンティック・ラブの要点のひとつは、恋愛感情の投影先の存在が肥大化し*1、それが「世界の全て」となってしまうところにある。それは自己の観念の肥大化でもあるため、当事者は永遠に満たされない。結果、ロマンティック・ラブは死へと帰結する。
こうしたロマンティック・ラブの一元論的な構造に対し、『雲のむこう、約束の場所』の構造は二項対立的、あるいは弁証法的である。
前者は「彼女(彼)*2が世界の全て」であるのに対し、この映画の中では「サユリ*3を救うのか、それとも世界を救うのか」という問いが主人公に突きつけられる。ストーリー上では、世界を滅ぼす可能性のある「塔の活動」と「サユリの眠り」とがシンクロしており、サユリを目覚めさせることが世界を滅ぼすことに繋がっているのである。
なぜ「塔の活動」と「サユリの眠り」とがシンクロしているかについての説明には、この映画の中でさほど重点が置かれていない(せいぜい塔の設計者とサユリとが血縁関係にあるくらいの説明である)。つまり、ここの部分については「そういうもの」として処理されているわけだ。これは「ほしのこえ」で、はるか宇宙で戦わなければならないのが「なぜヒロインなのか」が簡単に処理されていたのと同じである。「そういうもの」なのである。
問題は、「そういうもの」によって彼女が主人公から決定的に切り離されているということである。このことが「彼女」と「世界」とを「並べて」置くことを可能にする。当たり前の話だけど、世界の中の存在である限り、世界と並列的な関係をとることはできない。世界から切り離されて初めて並列関係が成立するのである。

飽きてきたけど、まだ続く。


*1:それはもちろん自己の観念の肥大化である

*2:そして私

*3:ヒロイン