○○にあって××にないもの

パラパラと偏見ですが、
ユニクロにあって無印にないもの、それは思想だと思う。
(ゲームとしての)サッカーにあって野球にないもの、それは時間だと思う。
ジーコにあってジーコJAPANにないもの、それは思想としての楽観主義だと思う。
で、総体としてのジーコJAPANよりもジーコのほうがはるかに魅力的に見えるのは、ぼくだけでしょうか。
やっぱりジーコには最後まで楽観主義者であってほしいです。

一年がたって

まったく、時の流れというのはずいぶん長いようで、前の書き込みからほとんど一年がたっている。これだけほったらかしにしていたというのは自分でもびっくりするもので、一年前はほとんどこれを書くことだけで時間のリズムをとっていたはずなのだけど(それほど頻繁には書かなかったけれど)、いまや会社勤めがそれに取って代わり、気づいたことは気づいたときにmixiに書き込んでいるわけだからそれはそれでいいのかもしれない。だいたい、暇つぶしなわけだったんだし。
で、一年たっていま何を考えているのかというと、これがまた微妙なもので、関心そのものはそれほど変わっていない。コミュニケーションの変容、それを促進するものと阻害するものについて、そしてそこから導かれるだろう人間の認識の拡張(縮小)とサイボーグ的なもの。そこらへんである。
ただ、付け加えて、ビジネスについての興味かなり深まっていたりする。資本主義においては、あたりまえだけど、物事の伝播の速度には必ずビジネスが絡む。NGONPOの活動にしてももちろんだ。そこをもう少し掘り下げていきたい。
なんだ、まだまだやりたいことがあるや。

メディアの新しい形について

まあだいたいこんなところだろうと思っていたあたりに落ち着きそうなフジテレビ・ライブドア問題を見ていると、何が新しい(マス)メディアの形なのか、誰が新しさを担うのかということについて、まったく光が感じられなくなる。おそらく、ライブドア社長は当初からの基本的な目的を果たしたわけだが、その過程でニッポン放送について語っていた言葉は、この結果を見るところまったく実を伴っていなかったといって良いだろう。
まあ、見えないところで何かが決まったというだけの話だ。
もちろん、政治じゃなくてビジネスの話なのだからなにも「見えている」必要などないのだけど、だったらことさら過程において「さぞかし」なアピールはいらなかっただろう。どちらの陣営も。
で、今日から日テレで始まった「A」という番組をちらと見たのだけど、これが何かの新しさだとしたらテレビはすでに終わっている(とぼくは思った)。ネットはずいぶんと小さなものらしい。まあ、既存の「テレビ番組」というフレームに当て込むならこのくらいが制作側の限界なのだろう。
当て込むというレベルに関して言えば、個人的は「DAKARA」のCMの取っているPCインターフェイスというか、Window的な画面構成のほうがよっぽど気になったし、うまくできてるなと思った。ぼく(たち)の認識の幅にはこれくらいがデフォになったほうが心地良い。
それはそれとして、これもまたマスコミが報じていた内容なのだけど、ライブドアは「インターネットとテレビの融合」の一案としてフジテレビ女子アナウンサーのネットでの活用を提案していたらしい。本当だとしたら、その人たちのアタマと口は腐っているに違いない。
まったく、何が新しいというのだろう。
結局のところ、現段階ではライブドアレベルの「インターネットとテレビの融合」は、マスメディアとしてのテレビの資源の有効利用といったレベルでしかないだろう。最低レベルでオンデマンド放送といった、通信手段としてのブロードバンドに焦点化した議論がなくてはいけないのだけど、それは現在のテレビが持っている自動的な広告モデルに激しく抵触する。ゆえに、テレビ側には何の利益も生み出さない。テレビ局の思想とは、「テレビで番組を見てもらうため」にインターネットを活用するというものでしかないからだ。
問題はビジネスモデルなのである。
どう考えればいいのか、いまのところちょっと思いつかないけれど。


配置する

日記代わりにつけるはずだったはずのこのブログも時間がなくてなかなか更新できない。
もともと、誰かに見られる(かも)しれないっていうことを「縛り」にして自分の生活をちょっとだけ規則的にしていこうっていう試みだったのだけど、去年末から再開した毎日の会社勤め*1が十分にぼくを規則的にしていて、そういう意味ではここの役割もちょっと性格を変えたほうがいいかなと思う。
で、いま止めようと思うのは「何か書くために本を読む・映画を見る」みたいな、レビュー的なものの考え方・やり方だったりする。


すごく単純な物の見方だとは思うのだけど、ぼくには「消費している間は何も生み出さない」っていう感覚がある。これは消費を生産の手段とすることへの違和感であると同時に、消費を学習というか、ある種の蓄積とみなすことへの違和感でもあったりする。
なんというか、何かにキャプションをつけてばかりでは永遠に構成はできない気がするわけだ。


「感情を対象化せよ」と言ったのはパスカルだったかスピノザだったか忘れたけれど*2、そうして対象化に成功し他場合、感情は次の瞬間に「配置」される。その配置のルールは時代的社会的に決定されるのだろうけれど、同時にそこにはそうしたものへの反抗を忍ばせておくことができる。
この場所が、「規定されたもの」と「規定するもの」とをめぐる闘いの場所となる。



そういうわけで、いままで以上に自分以外にはどうでもいいことをやっていこう。


*1:すでに一回職場は変えましたが。。。

*2:そう、ぼくは覚えたそばから忘れてしまう。この状態を「グレーA」とでも名づけたなら、いつも必要なことはこのグレーAにしかないように思う。厳密さは置き換えられる

「つんく♂」について考えてみたら

ヒマな時間のつぶすときについ寄ってしまうのがぼくの場合本屋と電気屋*1で、昨日も買い物ついでにビックカメラへ。
DVDとかのソフトコーナーでなんとはなしに物色していたのだけど、平積みの一角から「かっちょいいぜ、かっちょいいぜ」という声が聞こえ、すごく不気味な音楽に興味をそそられて流れている液晶テレビの前へ。
つんく♂*2ファミリーである。
正確には美勇伝というグループの『カッチョイイゼ!JAPAN』という曲。ここ数年音楽番組とかもフォローしてないぼくには聞いたことのない三人組だったが、顔をよく見ると中の一人はモー娘の石川梨華である。要するに、切り売り商法で生まれた一グループといったところか。
で、ちょっと不思議に思ったのは、「いまでもモーニング娘。って売れているのかな?」*3とか「いまは何人いるんだろう?」とかそういうことじゃなくて、いったいいつからつんく♂は「こうなったのか」ということである。
「こうなった」とはどういうことか。残念ながら逐一フォローしている人間ではないのだけれど、ときどきTVとか街中でつんく♂ファミリーの曲が耳に入ってくるときに、ぼくはいつも「文部省認定みたいな歌詞だなあ」という感想を抱くのだ。「がんばろう」とか「地球を守ろう」とか「愛が大切」とか、なんかそんなものばっかりのような気がする*4
それに加えて、「日本」である。
考えてみれば『LOVEマシーン』のころから「ニッポンの未来」について思いを馳せていたわけだし、このような方向性は自明だったのかもしれないけれど。それにしても時代を代表「した」音楽プロデューサーが次々に保守的なものや国家的なものに(たとえ求められたものであるにしろ)接近していったことを考えると、つんく♂もまたその方向にしか進みようがないのではないかと思う*5
そう、小室哲哉YOSHIKIに引き続き。
そのへんを含めて、ぼくが見る限り、つんくファミリーの最近のメイン戦略っていうのは「応援」なんだろうと思う*6
東北楽天の公式応援ソングを歌う、新潟県中越地震義援金の活動をする*7、カッチョイイゼとJAPANを応援する。マーケティングとして計算された戦略なのだろうけど、なんというか一貫している*8
で、応援の規模を広げていくと、現代社会ではとりあえず限界点として「国家」に落ち着く。「地球を応援しよう」って言ってみてもなにをどうしたらいいか分からないし、だいたいが環境問題とかと絡まって応援は行き場をなくす。そのため、有機的に人間の比喩が可能な臨界点*9として「国家」「国民」がリミットとなる。
ここでは「応援する側」と「応援される側」とが重なる。例えば、日本人*10が日本を応援する。
完全なマスターベーションである。
「応援が悪い」とはいわないけれど、そこにある一種の胡散臭さみたいなものを感じ取るというのは大切なことだと個人的には思っていて、だいたい応援にある「仮託」みたいな性質も丁寧に扱わなくちゃいけないものだと感じたりもする。しかも、その「応援」の基盤で、応援の中心で叫ばれるのは「愛」だったりするのだから。
う、話がだいぶつんく♂ファミリーから遠のいてしまった。
本当はこういう話にいわゆるモーヲタの人たちを絡めて、「その種の人たちが一番国家的なものに動員されやすいんじゃないか」っていうありふれた話を検討してみるつもりだったのだけど、まあいいや。


*1:電気屋っていうのかな。ビックカメラとか、さくらやとか

*2:♂マークが付くんだね。ことさらに自分がオスであることを強調しなければならない理由でもあるのだろうか。詳しくないので何にもわからん

*3:この点については、「モーニング娘。はひとつの市場になった」と考えれば済むと思う。似たような属性を持った人々が循環して構成する、ひとつの固定された市場。よって、もはやモー娘が世間を席巻する、マスを魅了することは「ない」。断定して、いいんじゃないかなあ

*4:もちろん、個人的な感想です

*5:現に進んでいるんだろうし。http://www.sponichi.co.jp/entertainment/kiji/2005/02/06/01.htmlとか、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050204-00000156-kyodo-soci

*6:「応援」との絡みで最近共感した記事。http://d.hatena.ne.jp/solar/20050306

*7:ホームページ見たらのってたし

*8:成功しているのかどうかは知りませんが

*9:応援が可能な対象

*10:「日本人」って何?みたいな話はここでは問題ではない

席を勝手に決められて

ヒマなんで出かけようと思って月曜日だと、ちょっと気になっていた美術展とかはぜんぜん見られないので、しかたないから映画へ。昨日のことである*1
で、近場の池袋で『ローレライ』を見たんだけど、その映画館が問題だった。
わりと人気があるらしく、平日だというのに座席指定。それも自分で決められるわけじゃなくて、受付(切符売り場)の兄ちゃんが「前から6列目と後ろから3列目、どっちがいいですか?」とアバウトな質問。前から6列目って答えてエレベーター→劇場の中へ入ったらほかの列もあいてるし。なにより指定された席が箱詰めで、
開演前に周りを見渡したら端のほうの座席はスカスカ。中央ギチギチ。
その時点ですでに滅入る。隣のオトコがマック臭いし。
チケット買って見に来てるのに自由に席も選べないっていうのはどんなものだろう。少なくても自分で空いている席(列レベルのアバウトな「指示」じゃなくて)を指定できるくらいのことはできてもいいんじゃないかなと思う。実際、そういう風にしてる映画館もいまは多いんだから。
せっかくの新しい映画館もちゃんとしたサービスが行き届いていなければ台無しだ。
で、肝心の『ローレライ』だけど、なんというか、歴史物にかなり荒唐無稽なSF要素(ガンダムクラスである。こういうときにナチスというのは便利だったりする)を一点加えて、それを中心にうまくドラマを構成してあってなかなか楽しめた。製作フジテレビっていうのを知らなくて、はじめそのテロップが出たときは大いなる地雷を踏んでしまったんじゃないかとドキドキしたけど。
まあ、あとで感想を書いておこうと思う。
映画館は気をつけて選ばないといけないなあ。


*1:ここまで、文のリズムが気持ち悪くて逆に気にいる

バカな政治家は落とそうリスト

ニュースを見てたらこんな記事が。

文部科学省下村博文政務官は6日、東京都内で地方議員らを前に講演し、中山文科相の昨年11月の「歴史教科書から従軍慰安婦や強制連行という言葉が減って良かった」との発言を支持する考えを明らかにした。(中略)また、下村氏は近隣諸国との歴史的な関係について配慮を求めた教科書検定基準の「近隣諸国条項」を批判して「自虐史観の教育が行われていることを『看過できない』と議員連盟を作った」と述べたうえで「7、8月に(06年度から使用する中学校教科書の)採択がある。正常な形で正しく採択されるようにしていただきたい」と語った。
http://www.asahi.com/politics/update/0306/004.html?ref=rss

なんというか、バカの周りにはバカが集まるというか。国なんかどうでもいいと思うぼくでも「国益考えろよ」ってつぶやきたくなる。
どんな「信念」持とうが勝手だけど、政治家なんだからさあ。
それより、「正常な形で正しく」っていうのはなんなんだろうか。こういうのを圧力って言うんだよね。この人は50歳くらいみたいなんだけど、政治家としては若手なはずで、日本の未来はまだまだ暗いってことになるのかも。
というか、政治家そのものが圧力団体化してると思うのはぼくだけだろうか。
ネットでググってみても、「バカな政治家を落とそうリスト」みたいなのってあんまり整理されていないみたいで、まあ誰をバカと思うのかなんて判断する人によって恣意的だからかもしれないけれど、少なくても言葉の使い方とか、守ろうとしているものの範囲の大きさみたいなものを基準にすれば、ある程度のものはできるような気がする。
これから自分がどこに住むかなんて分からないので、ヒマなときにまとめておこう。