配置する
日記代わりにつけるはずだったはずのこのブログも時間がなくてなかなか更新できない。
もともと、誰かに見られる(かも)しれないっていうことを「縛り」にして自分の生活をちょっとだけ規則的にしていこうっていう試みだったのだけど、去年末から再開した毎日の会社勤め*1が十分にぼくを規則的にしていて、そういう意味ではここの役割もちょっと性格を変えたほうがいいかなと思う。
で、いま止めようと思うのは「何か書くために本を読む・映画を見る」みたいな、レビュー的なものの考え方・やり方だったりする。
すごく単純な物の見方だとは思うのだけど、ぼくには「消費している間は何も生み出さない」っていう感覚がある。これは消費を生産の手段とすることへの違和感であると同時に、消費を学習というか、ある種の蓄積とみなすことへの違和感でもあったりする。
なんというか、何かにキャプションをつけてばかりでは永遠に構成はできない気がするわけだ。
「感情を対象化せよ」と言ったのはパスカルだったかスピノザだったか忘れたけれど*2、そうして対象化に成功し他場合、感情は次の瞬間に「配置」される。その配置のルールは時代的社会的に決定されるのだろうけれど、同時にそこにはそうしたものへの反抗を忍ばせておくことができる。
この場所が、「規定されたもの」と「規定するもの」とをめぐる闘いの場所となる。
そういうわけで、いままで以上に自分以外にはどうでもいいことをやっていこう。