いまさらセカチュー

このあいだハタチの女の子と少し話をする時間があった。
そのときに最近見た映画やドラマの話になったのだけど、ぼくはあんまりドラマは見ないしその子はあんまり映画とかに詳しくない感じだったので、いまさらながらに『世界の中心で、愛をさけぶ』で話を振ってみた。
思ったとおり彼女は映画を見ていて、それだけじゃなく原作も読み、ドラマもチェックしていたらしく、「ちょー泣いた」を繰り返す。ボキャを増やせよと思いつつ、適当に話をあわせる。
ただ、彼女が「ちょー泣いた」のは「映画のセカチュー」だけだったらしい。で、特にドラマをボロクソにけなしていた。「ほんとダメ。反省してほしい」などなど。そんなことをぼくにいわれても困るのだけど。。。
ぼくも、前にここでも書いたように*1、原作本を立ち読みで読破し、映画も見ている。実はドラマも2、3回は飛んでいるものの、だいたい見ていたりする。
で、このドラマ、ぼくはそんなに悪いとは感じなかったのだ。特に、「映画と比べたときには」。だからその子に「どこらへんが悪かった?」と思わず聞いてしまったりしたのだけど、「うーん、よくわかんないけどみんな言ってる」と返されてしまい、アウト。
ただ、「泣けなかった」とは言っていた。
まあ、確かに「泣ける」「泣けない」の観点ではドラマ版の方が分が悪い。映画のほうが「先」だったし、そもそも原作も、連続ドラマが可能なボリュームではなかったのだから。それを持続させるために、「私」と「あなた」以外のものを付け加えすぎてしまった感もあるし*2
だけど、物語の構成はほとんど同じだったはずだ。やっぱりよく分からない。効率よく「泣ける」ことだけが判断材料になっている、なんていうのはちょっと高速論理すぎるし。
ちょっと考えられるのは、「どっちがより青春物語だったか?」という角度からの切り込みだろう。鑑賞速度の違いこそあれ、「喪失」は映画、ドラマとも同じである。だとすればやはり、考えなければならないのは「癒し」なのかもしれない。そしてこの点が、片山恭一の「原作」と、「映画」「ドラマ」との大きな違いでもある。
ただ、やっぱりちょっと「いまさら」感が強いので、展開はやめておく。
ちなみに、その子がいま一番気になっている映画は『いま、会いにゆきます』らしい。。。


*1:http://d.hatena.ne.jp/a-shape/20040507とか、http://d.hatena.ne.jp/a-shape/20040511あたり参照

*2:ただぼくは、それも一概に失敗していたとは思わないのだけど

つくば市長選、再び

昨日ひさしぶりにここを更新したら、見覚えのないリンク元からのアクセスが増えていることに気がついた。追ってみると、どうも「つくば市長選挙」に関して書いた日の内容が2ちゃん系の街板にさらされていたらしい。誰が書き込んだのかはだいたいのところ見当つくので、連絡すること(→友人へ)。
で、一応そのスレッドをチェックしてみたのだけど、ぜんぜん賑わっていない。
まあ、そんなものだと正直思う。前回書いたことからも行き着くように、「つくばで選挙に関心がある人間は、ネットなど見ない」のである、基本的には*1。ここにもつくばの「地方性」、「選挙への関心=利害関係」という図式が見て取れる。
それに、「あの100億円事件のつくば市で選挙*2」っていうスレッド名も悪すぎる。地方の選挙のスレッドなんて、その街の住民くらいしか見ないものなのに。そんなものにこういう「工作性の強い」名前を付けてしまったら、その政治党略くささに新しい客なんか寄ってこない。もう少し「ネタ」の扱い方にうまくなって欲しいものだ。
でも、そんななかでここにまで来てくれた人たちに対して「あれくらいの内容」ではなんか悪い気がするし、それにまあ、関係者はこんなとこまでやってこないだろうから、今回はちょっとこの選挙周辺でぼくが考えてることを書いてみたい。
今回のつくば市長選挙については、ぼくは「消極的な理由」から現職の藤沢氏を推す。その理由の概略については以下の通りだ。
まず理由のひとつとして、その対抗馬と目されている市原氏の政治性の「古さ」だけは、きちんと拒絶しなければならないからだ。前回も書いたように、愛人が2人いようが5人いようが、それはその人の政治手腕には関係ない*3。下半身と政治能力とは基本的に別物だから。
しかしながら、地方新聞に「商工業者団体、農業者団体、区長会、市議の過半数を固めるなど組織力で他を圧倒している」と書かれていることからも明確なように*4、その支持基盤は旧来の地方土着的な「利権集団」であり、長いことこの地方を支配してきた人たちなのである。彼らが守りたいものはなにか。その目的は一点、政治と結びついて自分たちの利権を温存させることである*5。「彼らは変化を好まない」。そして、そのバックには自民党茨城県連が控えている。
簡単に言おう。そんな古い構造から押し出されてきた人物は、決して「新しいリーダー」ではありえないのだ
次の理由として、その他のふたりの候補が小粒な点がある。
北沢氏については前回指摘した一点で十分だろう。自らの来歴を意図的に隠し、さも清廉であるかのように装うのは、選挙である以上しかたないのかもしれないが、投票する側は知っておかなければならない。
野口氏については、はっきりいってそれほど詳しく知らない。いくらブログ等で情報発信していても、実際の実績は正直不足の感を否めない。これは、北沢氏にも共通するが。私見だが、いまつくばは第二の変革期を迎えていると思う。この時期に、一から市長を育てるリスクは大きい。
この2点から、ぼくは消極的に現職の藤沢氏を推すわけだが*6、加えてもうひとつ、積極的な理由もある。
それは、この選挙では「(土建業者に代表される)地元の利権=市原氏」という等式が完全に成り立っているということである。つまり、これまでの自民党勢力と完全に袂を分かつことで、業者利権に厳しかったこれまでの市政にもさらに新しい局面が生まれる可能性が増えているわけだ。これは、藤沢氏にとってはプラスである。
そして、外部にいるぼくにとって本当に興味深い点は、この選挙が「つくば市が自らを都市圏として定義するのか否か」を決める選挙だからである。つくばエクスプレス開業その他によって拡大する東京圏に政治の面でも共通性を持って加わっていくのか、それとも土着利権的な地方都市であることを保持し続けるのか。経済面でのいやおうなしの「浸透」を考えたとき、後者であるならばおそらくつくばは荒廃する。経済の速度に密室の政治が対応できないからだ。
とまあ、個人的にはそんなふうに考えてます。そう、スレッドに書き込んだヤツが言ってた通り、ぼくは市原氏だけは勘弁して欲しいです*7


*1:この部分は前回を参照

*2:http://kanto.machi.to/bbs/read.pl?BBS=kanto&KEY=1098067722

*3:選挙手腕には関係あるが

*4:常陽新聞http://www.joyo-net.com/の11月8日のヘッドライン

*5:いやおうなしに経済の浸透がすすむ現在において、それは地元を「荒廃させる」ことに他ならない

*6:前も言ったけど、ぼくはつくばに選挙権のない人間なので実際に投票することはないのですが

*7:それに、いくら下半身と政治能力が別とは言っても、当選したら週刊誌とかにもいろいろのっちゃうしね。元住民としては恥ずかしいよ

『SAW』

それほど注目もしてなかったんだけど、ちょっとタイミングあったので『ソウ(SAW)』(監督:ジェームズ・ワン)を見る。以下、ちょっとした感想。ネタバレあり。
メインの舞台は二人の男が鎖につながれたタイル張りの広いバスルームであり、一見その状況設定の極限性が目につく映画。だけど、実際のところはこの「舞台」外での物語や記憶、つまりストーリーをうまく作ることが、そのストーリーが行き来するこの「舞台」「現在」に観客を縛り付け、結果、作品が初めから終わりまで観る人間のドキドキ感を持続させることに成功している。
ただ、ぼくがちょっと興味深く感じたのは、「恐怖」と「犯人探し」(ミステリ)との関係だったりする。
この映画には恐怖の意匠がこれでもかと言うほどにちりばめられている。奇形の人形、仮面、マント、まるで口裂け女をおもわせる金属のマスク。これらは西洋の伝統的な「おぞましさ」の系譜に連なるものものである。これらに血や無残な死体を並べることで、おぞましさは観る人間にとっての恐怖へ転換する。目をそむける種類の恐怖と言ってもいい。
もちろん加えて、恐怖には「(誰かに)殺されるかもしれない」恐怖というものがある。本来、「犯人探し」と親和性が高いのはこの種類の恐怖だ。私が殺されるかもしれない。劇中人物にある程度シンクロしている観客にとって、決定的なのもこちらの恐怖である。遠くで誰かが死んでいるだけなら、それはただのスプラッター映画だったりする。
この映画は、この二種類の「恐怖」のバランスが非常にいい*1。「(誰かに)殺されるかもしれない」恐怖が軸となり、そこにシーン的にまんべんなく「おぞましい」恐怖が散りばめられている。
ただ、映画の中盤以降、犯人が特定されることで、この「犯人探し」は停止する*2。そしてそこに人間ドラマが発生する。疑心暗鬼の関係にあった二人の男が「信じる」瞬間、そしてある種のカタルシスが生じたラストである。
「犯人探し」が再び顔を出し、観客にストーリーをひっくり返した衝撃を与える。
しかしながら、この(真犯人が分かる)本当のラストが観客に与える衝撃の意味するものは、「突き放された」ということだ。劇中主人公たちにシンクロし、彼が鎖から自由になるために自分の足を切る「痛み」を共有し、わずかながらも得たカタルシス。にもかかわらず、その世界を支配していたのは「自分たち」ではないということ。自分たちが犯人のナラティブの一部を構成する「要素」に過ぎなかったこと。自分以外のものがゲームオーバーを宣告すること。「続きがある」のが自分たちではないこと。
この、「他者がメタ的な視点をとっていること」こそが、ラストのインパクトの正体になる。
だとすれば、ここでの「恐怖」はもはや「(誰かに)殺されるかもしれない」恐怖ではなく、「世界が自分のものではなかった」という感覚であり、その意味でより「死」に近いといえるかもしれない。
このことは、例えば、新本格以降のミステリ作品の流れなどを、ぼくに思い起こさせる。



ちょっとまとめる気が萎えてきたので書きっぱなし。
作品としては、期待してなかった分もあってかなり面白かったです。ただ、人を選ぶ映画なのは間違いないですが。


*1:こういう言い方もどうかと思うけど

*2:実は、とりあえずなのだが

米大統領選挙私見

ブッシュが勝った。
これでまたアメリカは、「決まったことには従う」あの微妙な誠実さでもって、オリンピックイヤーまでの四年間を歩み続けることになる。再びアメリカの外にいるぼくたちは、「アメリカ」と「大統領」とを同一視して四年間過ごし、そしておそらくいままで以上に、アメリカの論理は自らと「コラテラル」な関係にあるクラッシャーを招き続けるだろう*1
日本の小泉政権もこれで当分続くことになった。支持基盤を「内側」に持たないという点で前例にないこの首相にとって、この選挙結果は決定的なものだ。ちっぽけな国益ばかりが追求される政治がますます進行する。「自由なのは天皇だけ」という大いなる逆説*2がやってくる日も、そう遠い未来ではないのかもしれない。
今回の選挙結果が意味するもの、それは「世界は囲い込まれている」という事態であり、その事態の進行であるとぼくは思っている。このことはグローバリゼーションと対立しない。というよりも、ぼくたちはグローバリゼーションの定義そのものを簡略化しなければいけないのかもしれない。
囲い込みに関連して。
これはほとんどぼくの「思い込み」なのだろうけど、ブッシュが勝った州とケリーが勝った州とを見ていくと、この選挙結果は要するに内陸部や南部の「傾向」が海岸部や大都市の「意見」に勝ったということなんじゃないかと、思い切り単純化して考えてみたくなる。
このあいだつくば市長選に関連して言ったこととたいして変わらない事態である。定住性の高い地域は「外部」との接触が乏しい。大げさな言い方をすれば、「世界と接していない」。実際には経済その他によってそんなわけはないのだが、人間は実体化できないものに対しては反応が鈍い。
だから簡単に自分たちを囲い込む。あるいは、「簡単に囲い込まれる」。それは能力に関して言えばオルタナティブを提示できない弱さ(あるいは強さ)であり、他者の存在を矮小化する同質性への欲求である。地理的に囲い込まれている日本において、いかにして単一民族説が命脈を保ってきたかを考えれば、この点については一目瞭然だろう。
これがグローバリゼーションの本質だとぼくは思う。まさに、それを推し進めようとするイデオロギー*3によって「伝統」やら「文化」やらが持ち出されること。それらが民衆を囲い込む「装置」としてだけ稼動すること。おもに感情に働きかける装置として。ぼくたちの空間把握は二次元的だから、何かが前面に出てきたときには「他の何か」が隠れている。
ぼくも田舎の出身だから、いやだからこそ、こういう人間の魯鈍な部分に訴えかける「政治」が嫌いだし、それを許してしまう田舎の共同性、自己中心的思考、事なかれ主義を憎んでしまう。そして、そういう人が口にする「伝統」という言葉には腐臭がする。
決定的に、言葉の使い方が間違っているのだ。
いま森有正のエッセー集成を読んでいるぼくは、つくづくと、そんなふうに思う。


*1:2日前のブログhttp://d.hatena.ne.jp/a-shape/20041102参照

*2:http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20041029k0000m040133000c.html

*3:ここでこの言葉は不適切だろうか?

プロジェクトM

この「プロジェクトM」に至るくだらない経緯についてはこちらをご覧ください。

<目的>
プロジェクトM。その目的はただひとつ、「20代後半にさしかかったモテない司法浪人Mにとって、出会い系サイトは果たして出会いの場になるのか」を探ることである。Mとは、ぼくの大学時代の友人のひとりであり、このプロジェクトはMの知らないところで有志連合によりこっそりと発足し、そしてぼくのこの報告をもってひっそりと終了する(と思われる)。
<サイト・手法>
有志連合(友人グループ)によって「ぼくが寝てる間に」ぼくの携帯番号・アドレスで登録されていた出会い系サイトを使う。名前は「ロ○オ&ジュリ○ット」。シェイクスピアもびっくりである。友人Cにより、一万円分のポイントが購入済。ぼくの使命はこのポイントを消費し切り、レポートを提出することである。なお、プロフィールはMの経歴・趣味を一部改変して使用。写真についても、ぼくがチェックした段階ですでに有志連合によってMのぼやけた笑顔が登録済み。やりとりがあったときを想定し、フリーメールのアドレスをひとつ取得。
<期間>
一週間を目安にする。

とまあ、こんな感じでプロジェクトを開始した。では、さっさと結論から言おう。

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『コラテラル』

先日観た『コラテラル』(監督:マイケル・マン)の感想。例によってネタバレには配慮なし。
ひさしぶりだった。
何がひさしぶりかと言うと、見終わったあとで「これは面白かったのか面白くなかったのか」すぐにピンと来なかった映画が、ぼくにはひさしぶりだったわけで。そのことについてちょっとだけ考えてみたい。
話自体はシンプルだ。トム・クルーズ演じる殺し屋のヴィンセントが、麻薬組織から請け負った仕事をしにロスにやってくる。標的は5人で、それを一夜のうちに殺すこと。ヴィンセントは移動手段としてタクシーを選ぶ。そして、運悪くも声をかけられ、彼を乗客にしてしまったタクシードライバージェイミー・フォックス演じるマックスである。マックスはヴィンセントの仕事に巻き込まれ*1、目の前で次々と人が死んでいく・・・。
とまあ、そんな話。悪役演じるトム・クルーズが主役というのではなく、ドラマ、サスペンスとして観る場合はジェイミー・フォックスタクシードライバーが観客の視点人物となる。ただ、別に大きな謎があるわけでも、感動的な物語があるわけでもない。かろうじてマックスがアニー*2を守り切るあたりにちょっとしたカタルシスがある程度。
というわけで、ぼくは冒頭のような感想を持ったわけだ。「これは面白かったのか、それとも面白くなかったのか」。
で、それからつらつらと映画を思い出してみたのだけど、この映画の「核」はどうもサスペンス、ドラマにあるのではなく、「関係性」の描写にあるのんじゃないかと思うようになってきた。というか、その角度が一番この映画にとってすわりがいいような気がするのである。
どういうことか。
まず、「コラテラル」という英単語には、形容詞として「相並んだ、平行した」「付随的な、傍系の」という意味がある。この関係性を示す意味が、この映画の中心にあるとぼくには思えたのである。
この映画を観ていて気づかされることは、ヴィンセントとマックスとの掛け合いのシーンの多さである。これはもちろん、ヴィンセントがただ強いだけのターミネーターみたいな殺し屋ではないことを十分に表現しているが、それだけではなく、ヴィンセントとマックスとの関係が「相並んでいること」、ヴィンセントにとってマックスが「付随的である」だけでなく、マックスにとってもヴィンセントが自らの「影のような存在」であることを示唆している。
物語の始めのほうとラストでヴィンセントがマックスに語る印象的な話がある。「都会の地下鉄で、何時間もの間死んでいると気づかれずに放置されていた男」の話である。何百人何千人という人間が彼の前を通り過ぎ、時に隣に座った。しかし彼は死んでいると気づかれなかった。
合わせてマックスの境遇も考えてみよう。彼は12年間もタクシードライバーとして暮らしているが、いまだにその生活から抜け出せない。優秀なドライバーであり、人間的にも魅力があることは冒頭のアリーとのシーンからも明らかだが、それでも安物の服をまとう生活をしている。リムジン会社を運営する夢こそあるが、それはあくまでも夢であると考えている。いまの生活から抜け出す自分を想像できない。
ここにあるのは「都市の現実」といっていい何かだ。マックスは、そして標的なった5人や麻薬組織の幹部は、角度こそ違えど全て「都市(都会)」を表している。そして殺し屋ヴィンセントは彼らと「コラテラル」な関係にある。ロスにヴィンセント*3を招いたものは何か。それは麻薬組織であり、つまり「都市の論理」である。
ぼくたちはこれとよく似た関係を、ここ数年毎日のようにテレビで目にしている。ヴィンセントが何のアレゴリーであるか、それは明らかである。
だからこそ、ぼくたちが観るとき、この映画の論点は「ヴィンセントに意味を見出すことができるか」、その一点だといえるだろう。マイケル・マンはエイリアンとしてでなく、ましてや安易な転向者ターミネーターとしてでもなく、都会の影としてヴィンセントを描いた。そして、劇中なんどもヴィンセントが話すように、彼にとってこれは「仕事」なのである。ヴィンセントにもおそらく、ロスじゃない所に「生活」の場所があるのである。
ラスト、地下鉄の車両の中でヴィンセントは息絶えたかのようにみえる。しかしながら、誰かが「そのこと」に気づかない限り、ヴィンセントを乗せた車両は何度でも回帰するだろう。
そうした意味を持つ作品として、この映画はとても批評的である。
以上、ちょっとした感想でした。
先週の『2046』に続くこの週一本のペースが持続できたらいいんだけど。


*1:コラテラル=巻き添え」と劇中では訳されていた

*2:ジェイダ・ピンケット=スミス。『マトリックス』でナイオビを演じた人

*3:「ロスは嫌いだ」と冒頭で話している