『SAW』

それほど注目もしてなかったんだけど、ちょっとタイミングあったので『ソウ(SAW)』(監督:ジェームズ・ワン)を見る。以下、ちょっとした感想。ネタバレあり。
メインの舞台は二人の男が鎖につながれたタイル張りの広いバスルームであり、一見その状況設定の極限性が目につく映画。だけど、実際のところはこの「舞台」外での物語や記憶、つまりストーリーをうまく作ることが、そのストーリーが行き来するこの「舞台」「現在」に観客を縛り付け、結果、作品が初めから終わりまで観る人間のドキドキ感を持続させることに成功している。
ただ、ぼくがちょっと興味深く感じたのは、「恐怖」と「犯人探し」(ミステリ)との関係だったりする。
この映画には恐怖の意匠がこれでもかと言うほどにちりばめられている。奇形の人形、仮面、マント、まるで口裂け女をおもわせる金属のマスク。これらは西洋の伝統的な「おぞましさ」の系譜に連なるものものである。これらに血や無残な死体を並べることで、おぞましさは観る人間にとっての恐怖へ転換する。目をそむける種類の恐怖と言ってもいい。
もちろん加えて、恐怖には「(誰かに)殺されるかもしれない」恐怖というものがある。本来、「犯人探し」と親和性が高いのはこの種類の恐怖だ。私が殺されるかもしれない。劇中人物にある程度シンクロしている観客にとって、決定的なのもこちらの恐怖である。遠くで誰かが死んでいるだけなら、それはただのスプラッター映画だったりする。
この映画は、この二種類の「恐怖」のバランスが非常にいい*1。「(誰かに)殺されるかもしれない」恐怖が軸となり、そこにシーン的にまんべんなく「おぞましい」恐怖が散りばめられている。
ただ、映画の中盤以降、犯人が特定されることで、この「犯人探し」は停止する*2。そしてそこに人間ドラマが発生する。疑心暗鬼の関係にあった二人の男が「信じる」瞬間、そしてある種のカタルシスが生じたラストである。
「犯人探し」が再び顔を出し、観客にストーリーをひっくり返した衝撃を与える。
しかしながら、この(真犯人が分かる)本当のラストが観客に与える衝撃の意味するものは、「突き放された」ということだ。劇中主人公たちにシンクロし、彼が鎖から自由になるために自分の足を切る「痛み」を共有し、わずかながらも得たカタルシス。にもかかわらず、その世界を支配していたのは「自分たち」ではないということ。自分たちが犯人のナラティブの一部を構成する「要素」に過ぎなかったこと。自分以外のものがゲームオーバーを宣告すること。「続きがある」のが自分たちではないこと。
この、「他者がメタ的な視点をとっていること」こそが、ラストのインパクトの正体になる。
だとすれば、ここでの「恐怖」はもはや「(誰かに)殺されるかもしれない」恐怖ではなく、「世界が自分のものではなかった」という感覚であり、その意味でより「死」に近いといえるかもしれない。
このことは、例えば、新本格以降のミステリ作品の流れなどを、ぼくに思い起こさせる。



ちょっとまとめる気が萎えてきたので書きっぱなし。
作品としては、期待してなかった分もあってかなり面白かったです。ただ、人を選ぶ映画なのは間違いないですが。


*1:こういう言い方もどうかと思うけど

*2:実は、とりあえずなのだが