米大統領選挙私見

ブッシュが勝った。
これでまたアメリカは、「決まったことには従う」あの微妙な誠実さでもって、オリンピックイヤーまでの四年間を歩み続けることになる。再びアメリカの外にいるぼくたちは、「アメリカ」と「大統領」とを同一視して四年間過ごし、そしておそらくいままで以上に、アメリカの論理は自らと「コラテラル」な関係にあるクラッシャーを招き続けるだろう*1
日本の小泉政権もこれで当分続くことになった。支持基盤を「内側」に持たないという点で前例にないこの首相にとって、この選挙結果は決定的なものだ。ちっぽけな国益ばかりが追求される政治がますます進行する。「自由なのは天皇だけ」という大いなる逆説*2がやってくる日も、そう遠い未来ではないのかもしれない。
今回の選挙結果が意味するもの、それは「世界は囲い込まれている」という事態であり、その事態の進行であるとぼくは思っている。このことはグローバリゼーションと対立しない。というよりも、ぼくたちはグローバリゼーションの定義そのものを簡略化しなければいけないのかもしれない。
囲い込みに関連して。
これはほとんどぼくの「思い込み」なのだろうけど、ブッシュが勝った州とケリーが勝った州とを見ていくと、この選挙結果は要するに内陸部や南部の「傾向」が海岸部や大都市の「意見」に勝ったということなんじゃないかと、思い切り単純化して考えてみたくなる。
このあいだつくば市長選に関連して言ったこととたいして変わらない事態である。定住性の高い地域は「外部」との接触が乏しい。大げさな言い方をすれば、「世界と接していない」。実際には経済その他によってそんなわけはないのだが、人間は実体化できないものに対しては反応が鈍い。
だから簡単に自分たちを囲い込む。あるいは、「簡単に囲い込まれる」。それは能力に関して言えばオルタナティブを提示できない弱さ(あるいは強さ)であり、他者の存在を矮小化する同質性への欲求である。地理的に囲い込まれている日本において、いかにして単一民族説が命脈を保ってきたかを考えれば、この点については一目瞭然だろう。
これがグローバリゼーションの本質だとぼくは思う。まさに、それを推し進めようとするイデオロギー*3によって「伝統」やら「文化」やらが持ち出されること。それらが民衆を囲い込む「装置」としてだけ稼動すること。おもに感情に働きかける装置として。ぼくたちの空間把握は二次元的だから、何かが前面に出てきたときには「他の何か」が隠れている。
ぼくも田舎の出身だから、いやだからこそ、こういう人間の魯鈍な部分に訴えかける「政治」が嫌いだし、それを許してしまう田舎の共同性、自己中心的思考、事なかれ主義を憎んでしまう。そして、そういう人が口にする「伝統」という言葉には腐臭がする。
決定的に、言葉の使い方が間違っているのだ。
いま森有正のエッセー集成を読んでいるぼくは、つくづくと、そんなふうに思う。


*1:2日前のブログhttp://d.hatena.ne.jp/a-shape/20041102参照

*2:http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20041029k0000m040133000c.html

*3:ここでこの言葉は不適切だろうか?