『コラテラル』

先日観た『コラテラル』(監督:マイケル・マン)の感想。例によってネタバレには配慮なし。
ひさしぶりだった。
何がひさしぶりかと言うと、見終わったあとで「これは面白かったのか面白くなかったのか」すぐにピンと来なかった映画が、ぼくにはひさしぶりだったわけで。そのことについてちょっとだけ考えてみたい。
話自体はシンプルだ。トム・クルーズ演じる殺し屋のヴィンセントが、麻薬組織から請け負った仕事をしにロスにやってくる。標的は5人で、それを一夜のうちに殺すこと。ヴィンセントは移動手段としてタクシーを選ぶ。そして、運悪くも声をかけられ、彼を乗客にしてしまったタクシードライバージェイミー・フォックス演じるマックスである。マックスはヴィンセントの仕事に巻き込まれ*1、目の前で次々と人が死んでいく・・・。
とまあ、そんな話。悪役演じるトム・クルーズが主役というのではなく、ドラマ、サスペンスとして観る場合はジェイミー・フォックスタクシードライバーが観客の視点人物となる。ただ、別に大きな謎があるわけでも、感動的な物語があるわけでもない。かろうじてマックスがアニー*2を守り切るあたりにちょっとしたカタルシスがある程度。
というわけで、ぼくは冒頭のような感想を持ったわけだ。「これは面白かったのか、それとも面白くなかったのか」。
で、それからつらつらと映画を思い出してみたのだけど、この映画の「核」はどうもサスペンス、ドラマにあるのではなく、「関係性」の描写にあるのんじゃないかと思うようになってきた。というか、その角度が一番この映画にとってすわりがいいような気がするのである。
どういうことか。
まず、「コラテラル」という英単語には、形容詞として「相並んだ、平行した」「付随的な、傍系の」という意味がある。この関係性を示す意味が、この映画の中心にあるとぼくには思えたのである。
この映画を観ていて気づかされることは、ヴィンセントとマックスとの掛け合いのシーンの多さである。これはもちろん、ヴィンセントがただ強いだけのターミネーターみたいな殺し屋ではないことを十分に表現しているが、それだけではなく、ヴィンセントとマックスとの関係が「相並んでいること」、ヴィンセントにとってマックスが「付随的である」だけでなく、マックスにとってもヴィンセントが自らの「影のような存在」であることを示唆している。
物語の始めのほうとラストでヴィンセントがマックスに語る印象的な話がある。「都会の地下鉄で、何時間もの間死んでいると気づかれずに放置されていた男」の話である。何百人何千人という人間が彼の前を通り過ぎ、時に隣に座った。しかし彼は死んでいると気づかれなかった。
合わせてマックスの境遇も考えてみよう。彼は12年間もタクシードライバーとして暮らしているが、いまだにその生活から抜け出せない。優秀なドライバーであり、人間的にも魅力があることは冒頭のアリーとのシーンからも明らかだが、それでも安物の服をまとう生活をしている。リムジン会社を運営する夢こそあるが、それはあくまでも夢であると考えている。いまの生活から抜け出す自分を想像できない。
ここにあるのは「都市の現実」といっていい何かだ。マックスは、そして標的なった5人や麻薬組織の幹部は、角度こそ違えど全て「都市(都会)」を表している。そして殺し屋ヴィンセントは彼らと「コラテラル」な関係にある。ロスにヴィンセント*3を招いたものは何か。それは麻薬組織であり、つまり「都市の論理」である。
ぼくたちはこれとよく似た関係を、ここ数年毎日のようにテレビで目にしている。ヴィンセントが何のアレゴリーであるか、それは明らかである。
だからこそ、ぼくたちが観るとき、この映画の論点は「ヴィンセントに意味を見出すことができるか」、その一点だといえるだろう。マイケル・マンはエイリアンとしてでなく、ましてや安易な転向者ターミネーターとしてでもなく、都会の影としてヴィンセントを描いた。そして、劇中なんどもヴィンセントが話すように、彼にとってこれは「仕事」なのである。ヴィンセントにもおそらく、ロスじゃない所に「生活」の場所があるのである。
ラスト、地下鉄の車両の中でヴィンセントは息絶えたかのようにみえる。しかしながら、誰かが「そのこと」に気づかない限り、ヴィンセントを乗せた車両は何度でも回帰するだろう。
そうした意味を持つ作品として、この映画はとても批評的である。
以上、ちょっとした感想でした。
先週の『2046』に続くこの週一本のペースが持続できたらいいんだけど。


*1:コラテラル=巻き添え」と劇中では訳されていた

*2:ジェイダ・ピンケット=スミス。『マトリックス』でナイオビを演じた人

*3:「ロスは嫌いだ」と冒頭で話している