『頼子のために』、ほか

読んだ本をメモ。
京極夏彦陰摩羅鬼の瑕』(講談社ノベルス)。ぼくにしては珍しいことに前半の早い段階で物語がどういう形で収束するのかがよめてしまい、謎に惹かれてというよりも、その「よみ」の確かさを確認するために読んでいった感じ。結局期待は裏切られず、その意味ではほかの京極堂シリーズに比べてやや劣るかもしれない(ぼくにとっては)。存在者/存在についての議論もそれほど目新しいものではなかったし。


法月綸太郎『頼子のために』(講談社文庫)。ぼくの読書の傾向を変えた本だったのだけれど、もうずいぶん長い間忘れていて、ひさしぶりの再読。いまとなれば「ロス・マクドナルドの主題をニコラス・ブレイク的に変奏したような作品」という意味も分かるし、確かに形式的にはそのとおりなのだと思う*1
この作品の中で、不在を通して浮かび上がってくるものは、西村頼子というヒロインの悲痛さである。ヒロインは物語以前にすでに死んでおり、探偵法月綸太郎は決してその「生」に届くことはない。すべてが終わった後にやってくる探偵の、その「生」を探ろうとする行為は、しかし、結果として新たな悲劇を生んでしまう。この作品では「墓を暴くものとしての探偵」だけでなく、「裁断するものとしての探偵」という問題が存在し、さらに結末の「真」犯人のほのめかしによって「あやつられる作中人物としての探偵」という難問*2までもが発生している。
それぞれは相互に関連していて複雑であり(例えば第3の問題の発生は、そのまま第2の問題の根拠を宙吊りにする)、また同時に「探偵」の不可能性を指し示す。ミステリ系の批評ではとりわけ後期クイーン問題のみが取りざたされている気がするけれど、ぼくがこの作品の中心だと思っているのはやはり不在者としてのヒロインであり、彼女と探偵法月綸太郎との(あるいは探偵の彼女に対する)責任の問題、つまり「被害者という不在者と探偵はどのような関係を取り結ぶか」という関係性の問題である。
基本的に、探偵は「救おうと思った相手を救おうとする」。そしてそれは一般に、依頼者であったり恋人であったりする。あるいは、探偵は自分が巻き込まれた事件を解決しようとする。
しかしながら、探偵は「はじめから被害者として不在であった人間」を救うことはできない。なぜならそれは、「事件発生以前に事件を解決する」ということと同義だからだ。しかし彼(彼女)は事件を解決するために、被害者の「生」を再構成しようとする。そして多くの場合その成功こそが事件解決の道筋であり、そうであるならば探偵は被害者に最も近い者として自らを位置づけなければならない。
ということはつまり、探偵であることとは「常に人を救うことができない」ということだといえる。そして事後的にではあるが、彼は「救えなかったその人と一番シンクロする存在」でもあるのだ。被害者の悲劇はそのまま探偵の悲劇となり、そして彼(彼女)はその記憶をすべて背負って「生きていく」こととなる(被害者の「生」を引き受けるという側面を持つことになる)。
だいぶ単純化したけれど、ここに「探偵−被害者」の責任問題が発生する。『頼子のために』事件以降、探偵法月綸太郎が迷走する理由の基盤がここにあるのであり*3、また同様にこの問題は本格ミステリという、パズルに親和性を持った形式の「その形式性」が論理的に倫理を立ち上げていく事態をも指示する。
いまいちうまく言えないけれどぼくはそんなことを考え、そして現在の優れたミステリ作品というのは、そのような形式性をめぐる一連の問題系に何かしらの応答をしている作品のみを言うのだろうと思ったのでした。


*1:もちろん法月の執着する、『九尾の猫』に代表される後期クイーン問題の導入も併せて考えることができる

*2:上記注の問題と同じ

*3:この基盤の上に後期クイーン問題は存在するのだとぼくは思う