高校野球について(2)

前回ぼくは、高校野球の中心的な要素とはスポーツ性ではないと述べた。これはひどく暴力的な物言いであるため、前もって以下のことを断っておくべきだったかもしれない。
それは、「高校野球」という言葉は外部記述として使われているということである。つまり、当事者すなわち高校生の野球部員たちにしてみれば、自分たちはあくまで「野球」をやっているだけであり、それが「高校野球」としてくくられるのは彼らが高校生であるという属性と、それに付随する制度・言説(甲子園その他)が用意されていることによる。
で、ここから考えるのは外部記述としての高校野球、イメージとしての高校野球について。
まず、高校野球においては、プレーの未熟さやミスは「若さ」「高校生」という一点によって免罪される。それはあくまで「教育の一環」であり、プロとは違い野球によって生活しているのではないのだから、それは当然のことではある。プレーのレベルが勝敗を決めるスポーツであるにもかかわらず、観衆に厳しさはない。
こうしたプロ野球との違いに関連して、情報量の多寡がある。レベルの高い野球は、当たり前の話だが、観客に投げかける情報量が大きい。一つ一つのプレーについて論理的な意味があり(例えばイチローの守備におけるポジショニングなどを挙げればいいだろうか)、観客はゲームの中で充足することができる。それを読み取ることだけで十分満足できるわけだ。
この点では、高校野球は言うまでもなく十分ではない。しかしながら観衆はそれを楽しんでいるわけであり、だとすれば「他の要素」が強調されていると考えることもできるのではないだろうか。「ゲームの楽しさ」(スポーツの楽しさ)ではない、別の何かがそこには入り込んでいる。
ここに「若さ」の反転を見つけることができる。



と、ここまで書いて飽きる。
道筋としては、情報量の少なさをカバーするために高校野球ではことさらに「ドラマ性」が強調され、それは青春とイコールで結ばれるような(時代錯誤の)「若さ」観に接続されており、それを観衆のノスタルジーが下支えしている、というような話を展開するつもりだったのだけれど。
また、ここでの「青春」は、リミット付きでの許された「情熱」を意味している。ここで問題にしようとする「情熱」とは「破滅」に向かうものとしての「情熱」であり、制度と相克するものとしての「情熱」である*1。ゆえに高校野球は馴致された「情熱」の発露の場であり、そこで鑑賞されているのはすなわち「若さゆえの情熱」である、よって「過剰」は積極的に容認される、という感じで話を進めていく予定だったのだけれど。
さらに、かなり暴力的なこの論旨を彩るため、あだち充の代表作『タッチ』と『H2』を挙げ、そこにビルドゥングスロマンの成立と不成立(前者はそれに成功し、後者は失敗している)とを見ていき、ここまで展開してきたような「ドラマ」としての高校野球への視線そのものがある種の困難に直面しており、しかしそれを延命させるために(例えば)「高校野球は女子アナによって語られなければならない*2」のだ、といったふうに議論を展開していくはずだったのだけど。
まあ、飽きたものは仕方がないし、ある意味、上の素描で十分な気もする。
今後の課題。飽きないためにも、ひとつのテーマは一回で書き込むこと。


*1:ドニ・ド・ルージュモン『愛について』の議論の一部を変奏

*2:前回を参照のこと