『ドラえもん のび太と鉄人兵団』

懐かしさに誘われてドラえもん長編映画を見る。
1986年の『ドラえもん のび太と鉄人兵団』(監督:柴山努)、ドラえもん長編映画の第7作目。実は再見で、子供のころに見たという記憶だけがあるが内容はまるで覚えていない。同じころに見た映画やテレビでも内容まで覚えているものはかなりあるので、そういう意味では幼心に印象が薄かったのかもしれない。
さて、感想。


物語の骨子は、「人間を奴隷とするために地球侵略を企て、実行する異星人ロボットたちから、ドラえもんたちが地球を守るという話」である。そしてこの作品のドラマの中心は、そうした侵略者たちの一味として地球に先行して乗り込んできたロボット少女リルルが、のび太や「しずか」たちとの交流を通して考え方を変え、ある手段*1によって仲間たちの侵略を防ぐところにある。
論理的に考えるならば、この作品の時間処理にはちょっとした難がある。「過去へ行って歴史を変える」ことができるならば、その出発地点としての「現在」は「すでに変わった後の現在でなくてはならない」というのが論理的な考え方である。だとすれば、はじめから問題は解決されており、事件など起きなかったことになる。これを回避するためには「歴史を変えたことによる世界の分岐」を想定しなければならず、それはすなわち、「パラレルワールド」が存在するということを指示する。そしてパラレルワールドの導入は、世界Bでの問題の解決を意味し*2、世界Aの変化を意味しない。
ところがこの作品の中ではこうした問題が何も発生せずに、「過去の操作による変化」が「現在」と同じ瞬間の中で起きている。過去の世界での操作が成功した「瞬間」に、現在世界のロボットたちが消滅しているのである。これは世界Aと世界Bの混濁であり、論理的にはありえないわけだ。
まあ、もちろんアニメの中の(それも「ドラえもん」の中の)話なのだからそんなことを気にするのはおかしいのかもしれないけれど。ただ、例えばパラレルワールドを扱い、かつ「パラレルワールドに対する責任の取り方」まで示唆した名作『のび太の魔界大冒険』での見事な時空間処理に感動した人間としては、やはり引っ掛からずにはいられなかったわけです。
映画の内容としては、人間の歴史をそのままロボットの歴史に仮託し(その点では、異星人ロボットたちとはそのまま人類とイコールである)、リルルの変化を通して他者を思いやり理解することが大切であることを表現することにも成功しているといえる。以前から「ドラえもん」というのは戦後民主主義の到達点という側面を持っていると思っていたのだけれど、本作はまさにそうした印象を裏付けてくれるものだ。
ただそれは、エスノセントリズム批判にも読み替えることのできるこの作品を「いま」見ることのちぐはぐさにも同様に作用している。例えばアメリカあたりの宗教「的」指導者にこれを見せたところで何も伝わらないだろうし、ロマンティックな交流を描いたただの感動ものとしてくくられるだろうことは、まず間違いない。時代はドラえもん的想像力から離れてしまっている、本当に。
何かほかに、有効な想像力を見つけたわけでもないのに。


余談。
だいぶ前から「サザエさん」のタラオ的なキャラが本当に苦手になってしまっていて*3、同様の要素をたぶんに含む「野比のび太」にもあまり好感は持てない。けれど、それでものび太が何とか許容できるのは、のび太長編映画の中ではしばしば「いまそこにある状況から逃げ出さない」意志を、まさに責任といえるような何かを発揮するからなのだと思う。「本当に大切な場面では逃げ出さない」という、おそろしく理想的な人格をのび太は兼ね備えている。そして同時に、「(自分のことについて)いつもは逃げてばかりいるからこそ」、ぼくはのび太を許容することができるのだ。


*1:しずかとともにタイムマシンに乗って、三万年前に自分たちの先祖ロボットをつくった創造主に会いに行き、その先祖に「他者を思いやる心」を付け加えるということ。そのことによってロボットたちの歴史は変わり、仲間たちのみならずリルル自体も消滅してしまうにもかかわらず

*2:あるいは、問題など存在しなかった世界Bを意味する

*3:ぼくは本当に心が狭い