批評の中心

25年以上も前、詩人の谷川俊太郎は盟友である大岡信との対談の中で次のように述べている。

(いまではそういう意味での批評に疑問を感じはじめてはいるが)ただそれでも、批評の基本にあるのは趣味という、ほとんど外から規定できないような好悪の感情であるということは、いまでも僕のなかに叩き込まれているのじゃないかと思う*1

もちろん谷川も大岡も「批評」のあり方がひとつではないことを十分に理解している。そのことは、この対談の中では「自分を相対化」しているか否かという文脈で語られる。引用部分で谷川が触れているのは、趣味(テイスト)という個人的なものを高めていくことによる「絶対的評価」であり、それと反対に位置するものが大岡が自分の性質だと考えている、「自分を相対化」して作品や世界に分け入る批評のスタイルである*2
もちろん、どちらがよくてどちらが悪いとか、そういった話を彼らがしているわけではないし、ぼくの興味もそんなところにはない。ただ、こうした基本的な批評の性格については常に自覚的である必要はある。
前世紀の終わりというのを、ぼくは次のように単純に捉えているところがある。すなわちそれは、<徹底的な「相対化の時代」であり、一方でさまざまな「再構築」の道が模索されつつも、過剰な相対化ゆえに単純なものや絶対的なものが回帰する道幅が広がった>時代であるという、きわめてシンプルな認識だ*3。この認識と地続きに現在がある。
話をずらした。何が言いたいかというと、「ためらいがちに」話し出すことを忘れた「批評」にどんな価値があるのだろうか、ということだ。「すべての意見は個人的な意見である」的な物言いはたしかに正しいのだろうけれど、だからといって、開き直って何を言ってもいいのなら、そんな言葉などなくてもいいんじゃないかとぼくは思う。要するに、趣味(テイスト)を発露するためだけの発話というものの意味が、ぼくにはまるで分からないのである*4
それともそう思うのは、ぼくのなかにはっきりしたテイストが確立してないからなのだろうか。

美は人を沈黙させるというような箴言に至るものだよね、そういう態度(趣味的な断定)は*5

そこまでテイストを重ねることができたら確かに素晴らしいと思う。ただ同時に、そこまで洗練された何かはもはや「魯鈍」なものではないし、再び解釈が必要な、言ってみればひとつの「芸術」になっているのじゃないかとぼくは思う。それはやはり、ぼくのイメージする「批評」ではない。だからといって、批評が言説である以上、その基底部分に個人の趣味が入り込んでしまうことを否定するのは不可能だ。そうした姿勢もまた、前述の開き直り同様「歴史」に無自覚であり、単純さへと流れ込んでしまう危険性ばかりを高めるのだから。それでいて、沈黙しないための言葉は不可欠でもある。
まったく、ぼくたちは「ためらいがちに」話し出す以外にないのだ。



以下、続けようと思ったけど止めた部分。
あとで振り返るときのための参考として(→自分)。

例えば、歴史(あるいは現状)に自覚的であることをパフォーマティブに託し、それと相反するような内容をコンスタティブに示すような*6、「ねじれ」を利用した批評というのは可能かもしれないし、実際いま現在活躍している批評家(?)などにはそうした「戦略」を打ち出している人もいるらしい。ただ、それは当たり前のように読み手にある種のリテラシーを要求するし、また言説の流通そのものを偏らせることになる。また、過度の資本主義情報社会においては、読み込みの難しさは読み手の努力によって補われるのではなく、二次的に単純化された既存の言説・図式によって代替される(情報においても「客」の優位は保たれる)。そのことを考慮に入れるとあまり現実的ではないのかもしれない。

無理になにかをひねり出そうとすると、きまってうまくいかない気がする。


*1:谷川俊太郎『沈黙のまわり』(講談社文芸文庫)より。なお、カッコ部分は引用者による補足

*2:もちろん、それぞれは一人の人間の中で共存している。「一方で自己相対化はしていても、他方で絶対に譲らないところはある」というわけだ

*3:この「相対化の時代」という部分に「戦争で負けたこと」や「戦後民主主義」などを重ね合わせてそのネガティブさを強調するあり方こそが、石原慎太郎レベルの日本のポピュラリズムだとぼくは思っている。第一次大戦後のドイツ(ワイマール共和国)あたりでもなぞっているつもりなのだろうか

*4:フォマーティブなあり方としての「大声」というのは分かるけれど

*5:前掲書より。カッコ部分は引用者による補足

*6:あるいはその逆