血液型トークについて

ぼくはカラスが本当に苦手で、あの黒い姿にはいつも恐怖を覚えるのだけれど、それと同じくらいに苦手なもののひとつに「血液型トーク」がある。
例えば、一通りの自己紹介が終わったあとに初対面の女の子とのあいだで唐突に*1

「血液型、なんですか?」
「えっ、血液型?」
「待って、当てますね。B型でしょ?」
「いや、Aだけど」
「えー、見えないー。ああでも、A型とA型ってすごく相性いいんですよ」
「えっ、そうなんだ」
「Aなんです、わたし」

みたいな話の流れになると、もうぼくはいったいこの女の子が何を考えているのかさっぱり分からなくなるし、ましてやその会話をどうつないだらいいのか、見当もつかなくなる。なにしろ、血液型に関する知識なんてぼくにはまるでないし(Rh-が珍しいことくらいは知っているけれど)、それを性格判断に使った経験も一度もないのだから。だからそういうとき、きまってぼくは適当な話題に強引に話をそらし、そして最低限度の話術を持っていたことを神に感謝することになる。
だいたい、血液型なんておおまかには4種類しかないわけで、それで人の性格を分類しようとするのはあまりに大雑把すぎる。アリストテレスのカテゴリー数以下だし、性別の種類のたかだか2倍だ。ましてやぼくの血液型でもあるA型は日本人の中で一番多いのである(いまくぐってみたら日本人の約40%だそうだ)。10人に4人までもが「神経質」だとしたら、そんな国にこれほどカラスが多いわけがないのだ。
まあ、話のつかみとして使うというのは分からないでもない。でも、人間初対面の会話や仕草というのがその後の印象のほとんどを決めてしまうわけで*2、そんな場面での「血液型トーク」はなんというか、かなりプアなんじゃないかとぼくは思ってしまう。少しずつ探っていくから人間関係は楽しいのだし*3、人の性格が採血して分かるようなものだったらなんの面白みもない。
じゃあそれは「占い」のようなものかというと、それともちょっと違う。「占い」にはそれを「信じる」ときに一種の「飛躍」があって、そこには逡巡めいたものが確かに見え隠れする。それはもともと怪しいものであって、だからこそ対する人が入り込む余地が十分残されている。
それにくらべて、「血液型」を語る言説にはどうにも「科学的」な匂いがただよう。血液型はもちろん先天的なものだし、生まれてしまったぼくたちにはどうしようもないものだ。そう、それは「科学を装った決定論」という、とうの昔に淘汰されたはずの*4言説のバリエーションのひとつにぼくには思えてしまう。
結局、ぼくはその「安易さ」が苦手なわけだ。
まあ、ぼくの得手不得手にかかわらずこの手の会話が好きな人はいまだに多いし、このあいだもつけっぱなしにしていたテレビで血液型を特集した番組がゴールデンタイムに放送されていた。
いまのところ、トークの腕を挙げるよりほかに、そこから逃げ出す手段はないらしい。


*1:合コンの席とかをご想像ください

*2:少なくても長続きする

*3:なんかここらへん話が合コンに限定されてる気がしないでもないですが・・・

*4:ところがいまも生活のあちこちで見つけることができる