『スチームボーイ』

タイミングが合ったので映画館へ。『スチームボーイ』(監督:大友克洋)を見る。以下、感想。ネタバレ、少しあり。


例によってぼくの興味はナラティブが中心なわけだけど、その点について言えばこの作品はやや貧弱だったと思う。
この映画では主人公レイが「科学」に対してどのようなスタンスをとるのかが物語を牽引する大きな要素として「期待」されている。それは具体的には、<科学は善悪を超えた大いなる「力」であり、その進歩こそが人類を幸福にする>と考える父エディの立場*1と、<あくまで人間の幸福を先にとらえ、それに沿う形で科学の発展がある>と考える祖父ロイドの立場であり、レイがそのあいだを動くことによって物語が展開していくのだろうという期待である。
ところがその期待は裏切られる。レイは科学を巡る父と祖父とのあいだで確かに揺れ動くが、どちらにコミットするかを決めた要因は目の前で起こっている破壊行為(戦争)という現実であり、それは父と祖父のスタンスを理解し克服した上での行動ではない。このことは、スカーレットが血を流して倒れる兵士*2を見て「気づく」シーンなどと合わせて、スタンスの違いを「戦争」というひとつの側面に収束させてしまう結果を生んでいる。
ここにズレが生じているのである。
もう少し乱暴に言い換えれば、祖父と父とのスタンスの違いは「形而上」的な違いなのであり、それに対し子供であるレイは「形而下」のレベルで目の前の出来事に対して行動している。祖父ロイドと父エディとの間には「葛藤」があるのに対し*3、レイと彼らとの間にそれがないのはそのことに起因する。
もっとも、ストーリー上そうした「戦争」(「現場」)の前面化を行わなければこの映画は「冒険活劇」にはならなかったわけだし、子供向けのアニメーションとしても成立しなかっただろう。『イノセンス』などを挙げるまでもなく、問いを成立させることはある種の晦渋さを生み出すし、それは基本的に「活劇」とは相容れない。そうした点を考えれば、真正面から形而上学的問いを展開しなかったこの作品のナラティブについても理解はできる。
じゃあ、ぼくは何が不満だったのか。
それは一言で言うなら、祖父ロイドと父エディとの間の「葛藤」に何の展開もなかった点である。彼らの間にある違いは、この物語を通して微塵も動いていない。またたちの悪いことに*4、親子関係(スチム家)ゆえの共同性もまた最初から最後まで連続しており(スチーム城をテムズ川へ移動させる際の、三人の共同作業ぶりを思い起こしてみる)、それが思想的な葛藤を部分的に覆い隠してもいるのだ。
結局、「設定だけが活きている」。それがぼくの感想である。
もっとも、自分の記憶をたどっていくと、以前から大友克洋は「設定」の作家だとぼくの中で認識されていて、今回もそれを確認したということなのかもしれない。際立った設定のセンスと、一ひねりのユーモア。ストーリーテラーとして大友を考えたことは一度もないし*5。『童夢』や「Memories」をはじめて読んだときの印象がいまでも続いているわけだ。


以上がナラティブについての感想。その他、画的には、最後の「氷結」とそれがフラグメント化する場面が美しかったし、あとスカーレット役の小西真奈美の声優振りがかなり新鮮でよかったと思う。レイの声はなんというか、最初から「鈴木杏の声」としてしかぼくの耳には認識されず、そんな情報*6を前もって知っておくべきじゃなかったとしきりに後悔。
二作目とか、あるのかな。もしそうなら、大いなるプロローグとしてはよかったと思う。



以下、今回本文から消した部分。

さて、*7「人間」を単位として考えた場合、宗教も科学も哲学もすべてはただの「思想」である。それぞれが「普遍」を語り始めたときにはじめてそこに「オートノミー」が発動し、思想が先行して「人間」のありかたや輪郭を決定しようとする。

とにかく、この映画は思想的なカタルシスからちょっと逃げすぎじゃないかと。成否に関わらず、大切なのは「答えを出そうとする意志」だとぼくは思うわけです。


*1:父のライバルであるロバートの考え方もそうした思考の一つの変奏に過ぎないし、その助手デイビッドともどもその立場がややありきたりにみえるのは、彼らが「国家」や「社会」といった枠組みを不可欠な前提としているからだといえる

*2:彼女はそれが兵士(人間)だと自覚してなかったわけですが

*3:その葛藤は「言葉」で表現できるものである

*4:そう、性質の悪いことに

*5:気分はもう戦争』は別だけど、あれは矢作俊彦が入っているわけだし

*6:声優情報

*7:ここから先は暴論に聞こえるかもしれないが、一番の大真面目な部分である