国歌について

ぼくは「健全なナショナリズム」という物言いを認めない人間の一人だ。
ナショナリズムの存在や、それが人々の心や考え方の「ひとつ」のフレームになっていることを否定するつもりはまったくない。だいたいそんなことは不可能でもある。
だけど、それがもつ「暗くネガティブな部分」を横に置いておいて、ただただ感情的な一体感を優先させるようなあり方、自分たちの高揚感に入ってこない人間は排除して当然とでもいうような考え方は、なんというかマスターベーションを見せられているようで気持ち悪い。そんなものは鍵をかけて、カーテン閉めて、部屋の机(あるいはベッド)で一人こっそりと摩擦係数を上げてればいいわけで、他人がいるところでやるのは軽犯罪法違反だ。
国歌について、こんなニュースがあった。
http://www.asahi.com/national/update/0802/027.html
先月、こんなニュースを見た覚えがある*1
http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/major/news/20040722dde035070052000c.html
前にhttp://d.hatena.ne.jp/a-shape/20040728#p1で考えたこととも関係するのだけれど、テイストの発露というのは基本的には絶対的主観的な評価であって、それ自体*2は社会や他人に左右されるものではない。要するに、コミュニケーションではない*3。「国歌を歌うことはテイストの発露ではない」という人もいるかもしれないが、国歌を歌うことも、あるいは愛国心を声高に叫ぶことだって「テイストの発露」である。自分とは相容れない人間を一人横に置けば、そんなことは当たり前の話だ。
ナショナルというフレームの中で、「一体感」を無条件の前提とする。そしてそれを子供たちに伝播する。そんなものは教育でもなんでもない。
まず、「国」が「国家/国民」という二つの含意を持っていることに対する「無頓着」があまりに蔓延している。そしてそれゆえに、「(国を)愛さない自由」が、いまさらながら再考されなければならないのかもしれない。



とまあ、まじめな「てい」にて。


*1:ゴッド・ブレス・アメリカ」は国歌じゃないけれど

*2:テイストが発生する原因や環境ではなく、「テイストの発露」そのもの

*3:逆説的にいえば、だからこそ、「芸術」の周辺には必ずコミュニケーションが組織されるのである