高校野球について(1)

7月も後半にもなると毎年のように「今年も球児たちの暑い夏がやってきます」的な女子アナの声*1がテレビから聞こえるようになる。球児たちの暑い夏、高校野球の夏である。
もっともこの高校野球に対しては、それなりに批判もあるらしい。
昔から「なんで野球ばっかり・・・」という、サッカー少年やバスケット部員のやっかみはあったけれど、最近では「身体が成長過程にある高校生に、連日200球近くの投球を強いるのはおかしい*2」というコメントや、「なにも一番暑い季節の炎天下にやらせることはないんじゃないか」、あるいは「出場校は資金集めに奔走しなければならず、負担も大きい」「豊かな一部の高校のみが突出してしまっている」など、高校生を気遣うものから高校のあり方に苦言を呈するものまで、多種多様な批判がめずらしくなくなった。
高校野球を取り巻く環境についてのコメント(上の例で言えば、後者)について、ぼくにたいした意見はない。野球で名を売ろうとする高校があってもいいと思うし、選択者である高校生の流動性がそれによって硬直化しているかといえば、それほどとも感じないから。
ぼくが考えてみたいのは前者、すなわち「真夏に、若い身体に過酷さを強いるドラマ」としての高校野球についてである。
先ほど挙げた、「身体が成長過程にある高校生に、連日200球近くの投球を強いるのはおかしい」「なにも一番暑い季節の炎天下にやらせることはないんじゃないか」といった批判は、一見しごくまっとうな意見のように思える。実際、高校時代の負荷によって肩を壊してしまった人間はめずらしくもなく存在するし、甲子園の真夏の過密日程が後半戦での選手たちのプレーの質を落としていることも多い(らしい)。スポーツとしてはあまりに過剰である。
そう、こうした批判を発する人の頭の中には2つの前提があるのだとぼくは思う。その前提とは「野球はスポーツである」ということと、「球児たちには未来がある」ということだ。あるいはそれに「高校野球は教育の一環である」ということの1つの解釈を付け加えることもできるかもしれない。
そしてぼくが思うに、これらの前提は明確に間違っているか、単純にズレているのだ。
まず、「高校野球はスポーツではない」。あるいはそれが言い過ぎならば、「高校野球の中心的な要素とはスポーツ性ではない」。



時間がないので、以下、続く。


*1:これは「女子アナ」でなくてはいけないらしい。もっとも、長島三奈あたりをも含めた広い意味での「女子アナ」、女性キャスターということですが。忘れてなければこのことにも後半で触れる予定

*2:ピッチャーについて