『北の零年』

新年早々バテバテだったりする。
諸般の事情から、去年の終わりから会社員をはじめたんだけど、やっぱりどうも身体に合わない。親しい人間からはすでに何年も前から「社会不適合者」の烙印を押されているわけだけど、まったく、役者なぼくはなんでもそこそここなしてしまうわけで*1、そうするとめんどくささみたいなものの澱が溜まっていく。もう、手に取るように分かるのだ。
で、そうすると週末はもっぱら息抜きの時間になる。昨日も息抜き。ただ、寒かったし雨も降っていたので映画館へ。気になる映画も特になかったので、時間が合った『北の零年』(監督:行定勲)を見る。映画館近くの金券ショップで950円だったし*2。以下、感想など。
なんというか、「大いなるムダ使い」って感じの映画だった。
キャストはネームバリューも高いメンバーがそろっていたし、監督も「セカチュー」でいまノッテいる行定勲である。宣伝も大きくうっている。しかしながら、初日だというのに池袋の映画館には空席が目立っていたし、実際上映中にいびきが聞こえるなどもしていた。だいたいのところ、この光景が全てをあらわしていたと思う。
まず、物語が面白くなかった。
終わったあとで振り返ってみても、いったいなんの話だったのだろうと思う。北海道の開拓の話だったのか、人間の愛憎劇だったのか、人の生きかたの話(なんというか、道徳の香りを前面に出したような)だったのか。まあ、それらを絡めたお話であるのは間違いないのだろうけど、それにしては中途半端だった。一人の女性の生きかたの話という軸でまとめるには、話が散らばりすぎである。
次に、主人公に魅力がなさ過ぎる。
ぼくは「そういう世代」じゃないので、吉永小百合の良さをまったく理解できない。あれは演技なのだろうか。CMで「リビングは環境です」とか何とかいってる、そのまんま感が強かった。
と言うか、それ以前にこの映画の主人公の何が魅力なのかがまるでピンと来なかった。耐える姿だろうか。最後に逆切れする姿だろうか。逆切れなどではなく、夫の言葉を頼りにそれを自らの生き方に昇華したと言えば聞こえはいいけれど、それは現実との切り結びという点ではどうなのだろうか。
個人的に少し興味深かったのは、これもまた「ラストサムライ」の話でいうことだ。映画『ラストサムライ*3が滅び行く者たちの美学に収斂するような何かによって感動を喚起したのだとすれば、この映画の「ラストサムライ」たちもまた、時代に適応できずに、適応したものの下につくことによってようやく生を永らえている存在として考えることができる。滅ぶことができるか否か、死に場所があるかないか、あるいは性急に滅ぶか緩慢になくなるかの違いだ。
くしくも、両方の映画で「ラストサムライ」を演じているのが渡辺謙である。この映画の中で一番印象に残っているのは渡辺演ずる、主人公(吉永小百合)の夫のセリフ、「結局私には地を耕すことも、新しい国を作ることもできなかった。人に仕えて暮らすことしかできないんだ*4」というセリフである。
この映画は、結局のところこのセリフに行き着く。それゆえに、女の物語なのだ(あるいは、女の物語であるがゆえにそのセリフに行き着く、と言ってもいいのだけれど。ただ、その場合はもっと別の面倒な問題が出てくるのだけれど)。ただ、そこへのもってきかたが極端にヘタなのである。
なんか書いていて積極的な評価がぼくの中からまるで出てこないので、ここらへんで。
正直、もうちょっと短くて「ちゃんと」面白い映画を3本は作れたのではないかと思う。この映画に投入した資源を考えるならば。


*1:たいした仕事をしてるわけでもないからね。自分で言いますがw

*2:公開当日から950円ってのはどうなのだろう。ほとんど半額

*3:実は見たことありません・・・

*4:みたいな感じだったような。まあ、印象に残ったといってもその程度です