滅びることについて

ぼーっと会社員的な日常を送っていて時折愕然とすることは、話題にするようなことが起きないことや世界が狭いということなどではなくて、ぼくの場合、その日やることが決まっているということ、というか「毎日やることがある」というそのことだったりする。
どっかのノーベル賞受賞者が「物理学はちっとも役に立たないから面白い」みたいなことを言ってたように記憶しているけれど、そういう言葉のニュアンスみたいなものにはほぼ全面的に納得できるわけで、だいたいのところ役に立つようなものは面白くなどない、そんなふうにぼくも感じている。
「世界が先か、私が先か」みたいな話が昔からあるけれど、もし前者(世界が先)だったとすると私なんてたかだか舞台上の登場人物のひとつに過ぎなくなるわけで、当然そこには歴史(世界史)が発生するし、なんというかそのあまりの大きさ*1に私なんて矮小な存在に見えてしまう。
だからといって簡単に後者の立場(私が先)にたってみると、愛を叫ぶ世界の中心なんて消えてしまうし、他人が私という世界の登場人物に過ぎなくなってしまう。それに私の終わりが世界の終わりに通じるならば、その瞬間は通常の倫理が終わる瞬間だろうし、刹那主義が前面に押し出せれて身動きが取れなくなる。
とまあ、思い切り単純化する思考というのはだいたいのところこんなものだったりして、まるっきり役に立たない。でも、そこからちゃんと考えようとするには「毎日やることがある」っていうのは本当に邪魔だったりして、なおさらこの手の思考なんて実生活には何の役にも立たないのだから「大切だ」と思っていても軽く流されてしまう。そんなことをしているヒマがあるなら市場調査や原価計算でもしていたほうが「よっぽどマシ」なわけだ。
これもいわゆる規律訓練のひとつの型なのだろう。
そうしているうちに必要な行動に「最適化」され、ぼくたちの言葉は通じなくなる。通じない言葉をいつまで話していなければいけないのだろうかと思い、その言語は滅びる。
なんというか、そんなことを考えた。


*1:質量レベルの