「視角」について

何かを書くのもひさしぶりだ。
まったく、ちょっと疲れると寝てしまうのはぼくのよくないところだとしみじみ思う。いつもは「しみじみ」しただけでよしとしてしまうんだけど、習慣を完全に失うのも悲しいので今日はリハビリという「つもり」がかなり大きくなったようだ。


まず映画。このあいだ『オペラ座の怪人』と『Ray』を見てきた。
それほど感銘を受けたわけではないけれど、どちらも単純に面白かった。共通して感じたことは無難だけどやっぱり、「音楽」の力だったりする。アンドリュー・ロイド=ウェバーのあの音楽は聴いているだけでワクワクさせるというか、それだけで何かを得たという気持ちにさせてくれるところがいい。劇団四季のオリジナルミュージカル辺りとは大違いである。レイ・チャールズの音楽も、個人的には「わりと好きだけど詳しくは知らない」っていうポジションだったりして、それがまた伝記映画として面白く見ることができた理由だったりする。


で、全然関係ないのだけど、今日の毎日新聞を見てたら次のようなコラムを見つけた。
http://www.mainichi-msn.co.jp/column/kishanome/news/20050215ddm004070051000c.html
まあ、先日のサッカー、日本対北朝鮮戦のレポートみたいな記事である。
つっこみどころはけっこうあるのだけれど、中でも一番大きなところは次の一節だ。

日韓共催W杯のころ、スタジアムにあふれる「日の丸」を見て「ぷちナショナリズム症候群」と批判めいた新書本を書いた精神科医がいた。事実誤認もはなはだしい、と思う。日本のナショナリズム総体に話を広げても、それは「<癒し>のナショナリズム」(小熊英二氏)「パラサイト・ナショナリズム」(宮崎哲弥氏)程度の穏やかな水準でしかない。
政治家や論説委員精神科医らが、なぜ日本のサポーターを信じられなかったのか。それは彼らがスタジアムで観戦してこなかったからだ。つまり、現場を知らないのだ。そうとしか僕には解釈できない。

この精神科医っていうのはもちろん香山リカのことなのだけど、ぼく自身、当時彼女のその著作を読んで首をかしげた人間の一人だったりする。だけど、それを「事実誤認もはなはだしい」だなんては思わなかった。当たり前である。あの当時*1、社会の空気に対する違和感のひとつとしては妥当なものだったからだ。現象を説明するという意味では的を外していたとしても。
要するに、社会的な政治の空気というべきものに対しての「反応」としてみれば、香山のあの著作は「分かる」のである。
にもかかわらず、このコラムでは「政治家や論説委員精神科医ら」と、「現場を知らない者達」として一緒くたである。それは、これまで「信頼とかそういうレベルの話」を容易に取り込んできた「政治」について、あまりに棚上げではないのだろうか。というかスポーツライターならともかく、少なくても新聞社の記事としてはお粗末が過ぎるだろう。

フランスW杯では「弾丸ツアー」で現地に乗り込んだほどの、僕は日本代表ファンだ。ただ記者という職業柄、ライバルへの目配りは忘れぬようにしてきた。

と語るほどの記者である。自分が、相手が、何を見ているのかという「視角」の問題について、もう少しがんばって考えて欲しいものだ。


*1:そして、もちろんいまも