『2046』(3)

前回の続き。
(3)
ではなぜ、「世界が二つに解離してしまっている」ことが「やさしさ」につながるのだろうか。
(ここから先、これまでにも増して個人的で「勝手な」読み方が続きます)
まずチャウは、自分の魂が「2046」の世界、つまり決定的に幸せの「可能性」を失った過去の時間からまるで進んでいないことを「知っている」。知っているがしかし、愛はなくても現実の世界は続いていく*1。そのことを描くために、ウォン・カーウァイはチャウの前に次から次へと女性を登場させ、そして初期の村上春樹の作品のように、接触→交流・関係を繰り返させる。チャウはプレイボーイとして設定される。
しかしながらそこから浮かび上がるのは、プレイボーイ的にしか女性と接することのできないチャウの「悲しみ」である。再びバイ・リンとの関係を考えてみよう。二人はお互いの体を貪りあうが、チャウは決して「愛の言葉」を口にしない。まるでその言葉は魂に属するものであるかのように。そしてその関係は、バイ・リンがチャウへの愛を深くするにつれて徐々に終わりに向かっていく。
深く傷つくのは「魂」であることを、たしかにチャウは自覚している。ゆえに、その領域で女性を傷つけることは徹底的に回避される*2。それが、この映画の描く「やさしさ」である。世界が解離してしまっていることは、チャウという一人の人間の中で、「認識のレベル」と「行動のレベル」の二重化という形で表される。行動のレベルでチャウはプレイボーイとして自らを「律している」のであり、それは認識のレベルにおけるナイーヴさを温存するための手段なのである(身体は侵犯するが、心は侵犯しない)。
また、ここに「いまだに2046から還ってきていない」チャウの悲しさと、「再び2046へ赴く可能性を拒絶する」チャウの恐れとを見出すこともできる。他人との関係性を引き離すことによって、この「やさしさ」は確保されるのだ。
このことは同時に、関係の非対称性をも指し示している。チャウと女性たちとの関係は、決して同等ではない。チャウの甘く醒めた目は、どこかで「彼女たちの世界」を眺めているように見える*3。そのことにもまた、世界の解離が大きくかかわっている。現実から解離した人間は二つの目線を得る。
ここに錯綜した「強さ」が現れる。そしてこの強さが、やはり反転した「やさしさ」と結びつき、プレイボーイ的な「マッチョさ」を強化する。しかしその実、その根底にあるものは、「自分は現実に生きる女性に関わってはならない」という、祈りにも近い願いである。ゆえに、チャウはジンウェンと日本人*4との恋を取り持ち、自分と同じように過去に生きているように見えるスー*5を誘い断られ、ラスト近くでバイ・リン*6を抱きしめずに立ち去る、振り向きもせずに。
まったく、見事なまでのセンチメンタリズムである。



とまあ、こんなことをつらつら考えてみた。個人的にはちょい役(フェイ・ウォンの妹役)で出てきたドン・ジェ*7が気になったし、チャウの住むオリエンタルホテル屋上での、空と大きな看板と端っこに恋人(たち)っていう画が印象に残ってるけど。
でも、テレビとかでやってる宣伝はやっぱりどうかと。。。あれで甘いラブストーリーだと勘違いして見に行った人とか、かなりいると思うし。実際、ぼくが見たとき後ろに座っていた30代くらいの女性二人組は、終わったあとで非難ぶーぶーでした。「やっぱセカチューのほうが・・・」。
おいおい、なに期待して来てんだよ。。。
(完)


*1:余談だけど、この点に対する自覚を欠いた認識が、いわゆる「セカイ系」の描く世界だといっていいんじゃないかと思う。それは残酷さを自意識で隠すという側面を持っている

*2:あくまで無意識かもしれないが、チャウの立場からは

*3:「秘密」が、この非対称性を切り崩すキーになっていると思うのだが、その点については触れない

*4:フェイ・ウォン木村拓哉

*5:想い人と同姓同名のスー。コン・リーが演じた方の

*6:チャン・ツィイー

*7:中合作映画の『最後の恋、初めての恋』(渡部篤郎が主演)も見てたし。まあ、あの映画では断然シュー・ジンレイのほうがいいしメインなわけですが。というか、ほとんどそれだけの作品だし