『2046』(1)

『2046』(監督:ウォン・カーウァイ)を見る。以下、感想など。ネタバレあり。
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木村拓哉の海外進出作ということもあってか、やたらと宣伝に力が入っているこの作品だが、ぼくの場合もちろんそんなところに興味はない。『いますぐ抱きしめたい』以来、ほとんど全ての作品を見ているウォン・カーウァイの新作である。ぼくにとっては、「見に行かないほうがおかしい」のだ。もっとも、カーウァイ作品をミニ・シアター系以外の映画館で見るのには、いまだにちょっと慣れないのだけれど。
さて、『2046』である。『花様年華』の続編だとか、それこそ『欲望の翼』から続くカーウァイの「60年代作品群」のラストだとか、そういったそれこそフォロワーしか分からないような点は正直どうでもいい。そうした作品の見方も当然あると思うが、ぼくの頭がそれほど過去の作品を克明に記憶しているはずもないし、だいたいそういう風な鑑賞のあり方は謎本的な解釈に片足を突っ込んでいることが多い。そういったあり方が喚起するものは、もはや見る側の「感覚」ではなく、ただの「欲望」である*1
ぼくの見終わっての感想だけど、まず役者たちのキメキメ具合のすごさに笑ってしまった。トニー・レオンをはじめとして、演技が異常に「上手い」のである。というか、演技のサンプル写真集を見せられているがごとくに、カット、シーンの画が「たっている」いるのだ。ストーリーが観客をひきつけていく役割をメインで担っている映画やテレビドラマが多いのに比べ、その点でカーウァイの作品は異なっている。正しい意味で「刹那的」なのである。
そして付け加えておかなければならないことは、この作品の中では、そうしたキメキメの画に対して、個々のストーリー・エピソードは決して「キメない(キマらない)」ままに放置されているということである。トニー・レオン演ずるチャウの女性関係然り、小説世界としての「2046」然り。しまりのいいハッピーエンドな結末は、主人公チャウをめぐってはどこにも用意されていない。どれぞれの糸の切断面は、手で無理やりむしり取った後のようにぼやけ、ときに「いまだ」つながっている。
こうした点について、ぼくがすぐに考えたのは次の2つのことだ。つまりこの『2046』は、物語の範例としての「行きて還りし物語」*2にのっかりつつ、主人公が「どんな場面でも」それを最後までやり遂げることができない様子を描いた作品であるということ。そして、それがこの映画の中では「やさしさ」として描かれており*3、そのやさしさそのものがある種の「マッチョさ」として描かれざるをえないという、そのアイロニーである。
(続く)


*1:実際、プログラムガイドにのっている映画評論家やらライターやらの「読み物」はその辺を一通り踏まえているが、読んでいてホントに面白くない。この人たちは、いったい誰に読んでもらうために書いているのだろうか。もっとも、だからと言って「ぼくの書く文のほうがまともだ」とか、そういうわけではないんだけどね、もちろん

*2:大塚英志などより

*3:コン・リーチャン・ツィイーのセリフを思い出してほしい。彼女たちはチャウに向かって、「なぜあなたはそんなにやさしいの?」と反復する