『アイ,ロボット』

ウィル・スミス主演の『アイ,ロボット』(監督:アレックス・プロヤス)を見る。以下、ちょっとした感想など。ネタバレあり。

<承前>
我々は境界に対して責任ある存在であり、我々が境界なのである(ダナ・ハラウェイ)

ストーリーは押さえどころに対して忠実で、ドラマとしてよくできているというのが、この映画に対するぼくの正直な感想。特にラストシーン近く、主人公の刑事スプーナーがロボット嫌いになったきっかけが同じように反復しながらも、しかしロボット「サニー」の行動がスプーナーの「人間的な意志」を裏切らない場面*1は、この物語のクライマックスでもあり、なかなか感動的だった。
しかしながら、「よくできている」ことと「興味深い」こととは別の話である。
個人的に期待はずれだったことは、「ロボットの描かれ方があまりに古い」ことだった。
アシモフからリファレンスしているため、ロボット三原則など、基本的な設定部分はしっかりしている。だが、物語の主軸となる部分、つまり<ロボットの複雑に断片化されたコードが「ghost in the machine*2」を生み、そうしたものを内部に含んだロボットが三原則の帰結として、「人類の保護」を名目とした人間支配を行う>というストーリーはかなり平板である。基本的に、ロボットが分かりやすい敵として描かれており、例外である「サニー」のその例外性は「人間的な心」に大きく拠っている。
だが現在のリアリティーからすれば、現代の指し示している可能的な近未来の状況は「むしろ逆」であるとぼくは思う。問題はロボットが人間的か否かではなく*3、人間がロボットに(そしてロボットが人間に)近づいている現状にある。
例えば、ぼくたちはすでに認識や情報処理を外部デバイスに依存しているが、そうした瑣末なことの積み重ねは、一方でひどく矮小なぼくたちの「人間」という概念を歪ませている。そのことが、(例えばダナ・ハラウェイの「サイボーグ」のように)そこから抜け出すものとして自身を捉えなおすという手続きの方向性に向かうのか、あるいは概念への引きこもりとそれに付随する生活の本能化・目的化へ向かうのか*4、それが現在のリアルの考えうる二つベクトルだろう。そして、例えば「動物化」をめぐる一連の東浩紀の仕事などは、状況が限りなく後者への速度を速めていることを示唆している。
それに対して肯定的か否定的かはともかく、この後者的な状況が見落としているものは「概念の発明」であり、「境界」の認識であることは疑い得ない。もはや古典となった感のある「サイボーグ宣言」の中で、ハラウェイは上の文にこう続けている。

サイボーグたちであれば、性や性にまつわる具体的な事物の部分的で、流動的で、きまぐれな側面を、もっとシリアスに受けとめるかもしれない

勝手な思い込みだが、フィクションの中でロボットについて考えることは、常に自分が揺らぐプレートの上で右左していることとセットでなければならない。そして同じように揺れている人の中でだけ生活していても、その揺れは決して実感できない。
以上、感想。
要するに、よくできた喪失と回復のヒューマンドラマだったということです。


*1:スプーナーにしてみれば「喪失の回復」

*2:この映画の中では、ギルバート・ライルの概念とは無関係に使われている

*3:独立したカテゴリーとしてのロボットではなく

*4:当たり前だが、この方向性にはひどく反動的なものが伴う