『CODE46』

先週見た『CODE46』(監督:マイケル・ウィンターボトム)の感想。ネタバレあり。
感想を一言にするなら、なんとも「微妙な映画だった」ってところだろうか。正直に言って、それほどの感動があったわけでも、とても考えさせられたというわけでもない。ひとつひとつの尺がズレている感じがして、そのズレ具合にぼくは最後まで乗り切れなかったのかもしれない。
まず、映画の話法について。
この映画には二人の主人公(ティム・ロビンスサマンサ・モートン)がいるわけだけど、ナラティブの主体が見えづらい作りになっている。例えば、頻繁に挿入されるマリア(サマンサ・モートン)のモノローグを考えるとき、ナラティブの主導権は彼女の側にあるように感じられる。だが、彼女は途中で「記憶を消される」ために、あるいはティム・ロビンスの役割が捜査(探偵的行為)であるために、物語の大半は彼の行動を通して描かれる。
このように、作中のナラティブが微妙なバランスにあり統一されていないために、観客はエンディングに至ってもカタルシスが得られない。最後のマリアのセリフにシンクロするためには、ナラティブの主体が彼女にあることを自覚する*1ことが必要だが、それをこの映画は許さないのだ*2
つまりこうしたこの映画の話法は、二人のラブストーリーを「突き放した距離」で見ることを、観客に要求しているといえる。
つぎに、世界の設定とストーリーについて。
この映画の設定は大別するなら、二種類の異なる要素の組み合わせから成立している。
ひとつは、「遺伝子工学と病理学とが高度に発展し、その結果、優生学的な政策が世界化している」という、この映画のタイトル「CODE46」とも直結する要素である。
もうひとつは、政策の面では上記の要素と組み合わさっているのだが、環境的な退廃である。それは具体的には、徹底的に管理化され住居に適した環境である「都市」(内の世界)と、荒廃し無法地帯となっている「砂漠」(外の世界)とによって表現されている。この要素については、主人公二人がそれぞれの世界に対応している。体制の側の人間であるウィリアム(ティム・ロビンス)は内の世界に、外の出身であるマリアはもちろん外の世界に。
この二つの設定が、それぞれマリアとウィリアムとを決定的に引き離す要素として作用する。
まず、本来属する世界の違うはずの二人を引き合わせる動因として「犯罪」が導入される*3。そして二人は出会い、愛し合うわけだが、その二人を引き離すものが「CODE46*4である。
この「CODE46」違反によって、マリアの記憶は抹消される。しかしながら、その記憶はウィリアムと一緒にいることなどでよみがえり、そしてパペルの切れたウィリアムとマリアは逃避行に出ることになる。「CODE46」を超えて二人は愛し合うが、マリアにプログラムされた法規違反を報告する操作が発動し、カーチェイスの末に二人は引き裂かれる*5
そして、傷を負ったウィリアムの記憶は抹消されて彼はマリアと出会う前の「日常」に回帰する。マリアは記憶を保ったまま、「外の世界」へと放逐される。ここで二人を永遠に引き離すのが「内の世界」「外の世界」という、環境的で距離的な要因である。マリアが記憶を抹消された後でそれを取り戻したのは、記憶を保っていたウィリアムが「内の人間」だったからであり、それが逆転する*6このエンディングではそうした希望が残されていない。
だから、マリアの最後のつぶやきは決してウィリアムには届かない。この映画がかもし出している「せつなさ」はそこらへんにあるのだろう。
こうして書いていくと、この映画はたしかにSFの設定を取り込むことで、常套的なラブストーリーの要素を網羅している。運命的な出会い、大きな妨害、成就、永遠の別れ、・・・。しかしながら、そこには大きな要素が欠落している。それは「自分で自分を盛り上げるシステム」としての内面描写である。つまり、自意識の発露が欠けているというか、不足しているわけだ。
そして、それをおそらく「意図的に」マイケル・ウィンターボトムはおこなっている。先に述べた話法ともども、この映画は二人のラブストーリーを「突き放した距離」で見ることを、観客に要求しているのだ。
詩的というよりは、散文的。激しさというよりも、静謐さ。そこには「過剰さ」がない。ぼくには、美しさゆえにいびつさが拒絶されている気がした*7
ここに、この映画にぼくが乗り切れなかった理由がある。本来、SF的想像力というのは美しさではなく、人間の「いびつさ」を描くものだと思っている部分がぼくにはある。そして、ラブストーリーも同様だ。よくできた未来的想像力の上でよくあるラブストーリーを走らせても、なんというか・・・。
ラブストーリーという面に引き寄せて感想言うならそんな感じ。
でも、一時間半の間まるで退屈はしなかった。
あと、個人的には二人がBob Marleyの「No Woman No Cry」を口ずさむシーンが好きです。


見終わったあとでゴダールの『アルファビル』を思い出した。都市の環境的な設定とか、最後のセリフへのもって行きかたとか、部分的に似てるかな。


*1:つまり、彼女に感情移入して

*2:サマンサのモノローグが頻繁に挿入される理由は、この感情移入、つまり「ナラティブの主体が彼女で終わること」への誘導であるはずだ。その点だけを取り出すなら、ストーリーの展開によってこの誘導は間違いなく「失敗」している

*3:このパペル(パスポートとビザの役割を果たす紙)の偽造というマリアの犯罪自体が、「行けない場所へ行く」という境界侵犯行為であることもまた、その後展開されるラブストーリーをあらかじめ予感させるものとして働いている

*4:「同じ遺伝子間の生殖はいかなる場合も避けること。その法規を侵したものは犯罪者として記憶を抹消される」

*5:車道を外れ事故るシーンでゴダールを思い出しました

*6:マリアは「外」の人間

*7:ぼくが最も「いびつさ」を感じたのは、ラスト近く、意識を取り戻したウィリアムの隣で「全てを知った」妻が何もなかったように振舞っている様子が、何事もなかったかのように描かれていたシーンだった