K-1GP2004開幕戦

ここ一年くらい、ぼくは格闘技の不可能性をあらわすひとつの極端な例として曙に注目している。
というわけでレミー・ボンヤスキーvs曙の一戦だが、ある意味期待通りのKOによって*1、今回も曙は勝つことができなかった。
曙太郎の語る「精神性」みたいなものについては前にちょっと考えたことがあるけど、きょう気になったのは身体のことだ。
十数年をかけて造り上げられた曙のあの山のような身体は、もちろん「相撲」のための身体であり、そのためだけに特化した身体である。一年程度「違った」トレーニングをしたところで、そうした身体は簡単に変化しない。
このことを格闘技としての「硬直性」に絡めて考えると次のようになる。つまり、ほかの格闘技に比べて「相撲」は硬直性が高く、応用が利きづらい。以前考えたように、全ての格闘技は当たり前のように「ルール」「コード」を持っている。そして勝敗は基本的にその「コード」に規定されるわけだから、その「コード」に適応した身体を手に入れることはきわめて重要になる。それは形式性の問題であり、相撲のようにルールが身体の動きを大きく拘束する格闘技は、その制約によって極端な身体を要請するわけだ。「受けて、見せる」ことをなによりも重視するプロレスラーの身体が極端な筋肉質であることも、同じことに起因する。
K-1にもまた、それが要請する身体はある。
1997年以降*2のGPチャンピオンを考えてみればいいだろう。初期K-1を支えたピーター・アーツのキックボクシングスタイルと絶対に倒れない頑丈さを前面に押し出したマーク・ハントの身体はともかく、4回の王座に輝くアーネスト・ホーストと現王者のレミー・ボンヤスキーの身体には共通性がある。
そしてその共通性には、他の選手が「ボクサー」や「キックボクサー」「空手家」としてリングに上がるのに対してホーストボンヤスキーがもはやそのバックボーンよりも「K-1ファイター」としか言いようのないスタイルで戦っていることも含まれている。いち早くK-1の「コード」に気づいたのがホーストであり、ボンヤスキーはその正当な後継者となるだろう。
そしておそらく、この競技で勝者になるには、(曙に対してよく言われる)潜在的な実力などではなく、<バックボーンの「コード」とそれによって培われた身体が、どれくらいK-1の「コード」に近いか>という、その距離感こそが何よりも重要になる。要するに、相撲からではいかにも「遠い」のだ。
もちろん、各選手が「コード」に近づけば近づくほどに、ジャンルとしてのK-1の形式化は進む。それがここ数年のK-1の現状であり、プロデュースする側もその弊害に気づいているだろう。なぜ負け続ける曙がこうも期待されるのか、その理由でもある*3
山は動きづらい。


*1:この一戦ともう一試合以外は、すべて判定とかタオル投入とかだったし

*2:ジャンルとしてK-1がスタイルを確立したのは極真空手フランシスコ・フィリオが参戦したころだと、個人的には思っている

*3:フィリオやサップが登場したときの、あの「黒船」的な緊張感が渇望されているわけだ。しかしその後の彼らの軌跡を見るなら、それがいかに「構造」の前に敗れ去っていったのかが分かるだろう