RPGについて

別にそれほど深い感慨ではないのだけれど、最近のいわゆるライトノベルの隆盛やその周辺をめぐるいくつかの批評などを見ていると、そこにそれとない「欠落」を感じることがある。
それはゲーム、なかでもRPGのナラティブに対する言及の少なさである。
もちろん、大塚英志などは「まんが・アニメ的リアリズム」の初期的な形態としてのテーブルトークRPGについて触れているが、ぼくが念頭においているのはテレビゲームのRPGのナラティブのことだ。具体的にはドラゴンクエストやFF、テイルズシリーズなどを想像してみたりする。
思いっきり単純化して言うなら、RPGにおける主人公は受動的でなければならなかった。ドラゴンクエストシリーズに顕著だが、主人公=プレイヤーである以上、名前は変えることができなければならなかったし、突然わけの分からない会話を始めたりしてはならなかった。主人公は世界の住人の話を「聞く」。探偵物語さながらに、重視されるのは主人公=プレイヤー目線の堅持であり、その自由度だった。
しかしながら、それは当たり前のようにナラティブの自由度を制限する。そこで、主人公=キャラクターという図式、そしてそれに対してメタ的視点を取るプレイヤーという関係性を採用したゲームが生まれる。プレイヤーの自由度ではなく、ナラティブの自由度・充実を重視するあり方は、たとえばFFシリーズの変遷に見て取れる。それはある意味、ゲームの力点を映画的なものに移すあり方にも「見えた」。FFが映画に進出し(大コケし)たのも、いままたFF7の続編を映像作品で発表しようとしているのも、そうした認識の表れといえる。
以前、斎藤環が映画版FFのコケた理由をそのCGに着目して述べた文章を読んだことがあるが*1、それに加えて、理由としてゲームのナラティブを映画のナラティブに接続した安易さを挙げることができるだろう。プレイヤーは鑑賞者ではない。たとえ一本道のストーリーが用意されていたとしても、プレイという形は、先に述べたドラクエ的なゲームとの関わり方を基礎部に持っている。
例えば、「ファイナルファンタジー10」*2は、そうしたゲーム形式のはらむメタ性と物語内部のストーリーとを主人公ティーダというキャラクターによって接木し、その形式が喚起するラブストーリーを展開させた見事な作品である。そして、こうした作品が実にダブルミリオンの売り上げを誇るところに、こうしたRPGのナラティブが持つ影響力をうかがい知ることができるのだが、こうした作品についてさえ十分な批評はなされていない。こうしたゲームに慣れ親しみながら成長してきた世代によって、リアルもまた変化しているというのに。
なんだかなあと思ったりするのだ。


*1:確かInterCommunicationか何かだった

*2:もうだいぶ古くなってしまったが