『珈琲時光』その他

昨日は『珈琲時光』(監督:ホウ・シャオシェン)を見た。
小津安二郎の生誕100年を記念」した作品ということで、今回は、見る前からぼく自身が最近拘泥している「物語」や「ドラマ性」についてはいったん頭の中から取り払っていたため、ゆったりと楽しい時間をすごすことができた。
ぼくは小津作品は数本しか見ていないのでよく分からないけれど、単純に、例えば固定カメラによる画そのものの静謐さは十分「らしさ」を感じたし、それと同時に、カメラの枠を外れて広く拾っている「街の音」「生活の音」が、あらためて映画というものの限定されたメディア性をぼくに感じさせてくれた。
ハリウッドに代表される物語性の高い映画は、「物語の時間に観客を乗せる」ため、その「没入の話法」を確立させさえすれば2時間くらいの時間を楽しく過ごすことができる。リアリティは設定と、その構築された話法に属する問題となる。
そういう体験は楽しい。けれど、「生活はレンズの枠外にある」とでも言っているような(こういう)映画のもつ、「日常が滑り込み、反発し融解していく」形式性*1と、その形式性が持つ静謐さもまた、十分に高い娯楽性だと思う。
ただ、一青窈の「自然さ」と、ほかの役者*2の演技の「自然さ」*3との温度差は感じられた。悪い意味でも、いい意味でもなく。


雑誌『談』のno.71を読む。
特集名は「匿名性と野蛮」。ネット、とりわけ2ちゃんとBlogについての斎藤環北田暁大との対談はそれほどテンションが高くなく、ゆるゆるな感じ。もっとも、そうしたゆるゆる感はこの雑誌の方針なのかもしれない(「談」というくらいだから)。酒井隆史の部分もインタビューで構成されているし。
そんななか個人的に気になったのは、唯一対話形式でない小泉義之の「ゾーエー、ビオス、匿名性」。ホモ・サケルの概念を現代版に書き換えながら「生−政治」が完成に近づいている、という論点は重要だろう。


*1:映画を見るという行為に対する、メタ的な位相の喚起

*2:浅野忠信萩原聖人余貴美子小林稔侍などの

*3:というか、静謐さ