醜いもの

断定してもいいことだが、安易さは醜い*1
最近のニュースから。

11日午前11時45分ごろ、千葉市若葉区西都賀3丁目の市道で、2人組の男が、車いすの同市稲毛区の無職女性(40)を路地に引き込み、ナイフのようなものを見せ「金を出せ」と脅した。男らは女性が足元に挟んでいた現金40万円*2入りの袋を奪い、オートバイで逃走した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040911-00000084-kyodo-soci より

危険性を最小限に抑える「獲物」の選択と、やり口の単純さ。生活と地続きの、最低限度の「収穫(目的)」。背後に何のロマンも感じさせない、「日常生活的」な犯罪。
醜くしているものは文脈だろうか。

チェッカーズ高杢禎彦(42)が同じグループのボーカル、藤井フミヤ(42)を名誉棄損と営業妨害で訴えることを検討していることが14日、分かった。関係者によると、高杢側が問題にしているのは13日、都内で行われた元チェッカーズのドラマー、故徳永善也さんを送る会での発言。フミヤは、高杢が昨年6月に出版した「チェッカーズ」(新潮社)について、「デタラメな本だから、みんなから読まないほうがいいよと言われ、読んでいない」と話した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040915-00000062-sph-ent より

死者はどこに行ったのだろうか。社会的な体面を弔う気持ちに短絡させる、その考え方は安易ではないのだろうか。死者さえもが自分が「生きること」の倫理に抵触しないなら、生きる「やり方」を制限しないならば、その材料になるのならば、この世界で生きているのは動物だけということになる。
事実としては、死者さえも手段にして、人の生活は続いていく。でもそれは決して表に出してはいけないことなのではないだろうか。

大量破壊兵器――「戦争の大義」にけじめを(朝日新聞社説)
(略)
フセイン政権が危険な独裁体制であったことは、米国の言う通りだ。しかし、この戦争は米国にとっても、世界にとっても、あまりにコストが高い。それをもたらした情報や判断の誤りについて、米国自身にきちんとけじめをつけてほしいというのが、今の国際世論だろう。
さて、小泉首相はこれまでの言動を悔いているだろうか。
大量破壊兵器はいずれ見つかる。戦争は正しい。首相はそう言い続けてきた。(・・・中略・・・)判断のもととなった情報や検討の過程を洗い直し、それを国会で国民に対して説明するのが当然の義務である。
確かなけじめは、日本にも要る。
http://www.asahi.com/paper/editorial20040916.html より

「けじめ」とは「(道徳や慣習として守らなければならない)区別」を意味する*3が、慣用的には「けじめをつける」の用法からも分かるように、「反省」の一形式である。
「反省」という形式は一見自意識内で完結するように思えるが、もちろん、過去の自分を現在の自分から切り離すという外在的な操作と、過去の自分と現在の自分との連続性の自明視という、二つの要素の統合が前提となっている*4
そして、認識論のレベルはともかく、行為のレベルにおける反省はほとんどの場合「事後的」である。ぼくがこの社説に感じる違和感は、その点を中心とした二つである。
つまり、ひとつは、「けじめをつけろ」と言うときにいやおうなしに表出する、責任の内在化である。この文章が指し示す「けじめ」の主体は何か。それはブッシュ政権であり、小泉政権である。要するに、間違いだったことを「認めなさい」と言っているわけだ。「認める」のはそれぞれの政権である。とりわけ政権と国民との距離が「遠い」日本の場合、それはほとんど「彼らの話」となる。政権の自律性を前提とした話だが、そんなものは「より」政権の根幹に関わる話(人気や選挙)に比べれば、当事者にはまったく「軽い」話題である。
関連して、ふたつめは、この二つの政権が認識論レベルで「反省」の形式を備えていないことは明らかなのだから(目的に認識を付属させていることは明らかなのだから)、行為のレベル(社会的な責任のレベル)でいくら外から「反省」を求めようと、まるで意味などないということだ。もちろん、この社説は「正論」である。だが、意味がない。
問題は、感覚的な認識*5のみが突出した結果、事実として戦争は起こった(戦争を起こした)ということであり、重要なことは「けじめをつけろ」と言うことではなく、けじめなどありえない形式としてのこれらの政権が、「現に」存在してしまっていることである。
指摘すれば事足りる思っている段階は、現状においては「安易」だ。
そして、あえて繰り返すけれど、安易さは醜い。


*1:きょうは、わざわざ美的表現を使ってみた

*2:ちなみに、この40万は口座からおろしたばかりの生活費らしい

*3:広辞苑第五版

*4:反省は常に直接的な知覚とは別物として考えられてきた。例えば、ヘーゲル的な弁証法のはるか以前、ロックにおけるsensationとreflectionとの相違などを念頭に置く。もちろん、これは認識論の文脈だが

*5:そして感情的な。「かかってこい」などと言う大統領は、ほとんど西部劇のヒーローである