『LOVERS』

『HERO』をそれなりに楽しく見た記憶に引かれて、 『LOVERS』(監督:チャン・イーモウ)も見に行く。以下、思ったことなどを少々。ネタバレあり。


例によってぼくの関心はほとんど物語だけなので、新聞のレビューとかでも絶賛されている色彩感覚や衣装*1その他についてはコメントなし。
そんなことより、この映画については「恋愛描写が複雑すぎてのめりこめない」的な批判があちこちで見られるのだけれど*2、その複雑さというのは物語の構造上(とりわけ、アンディ・ラウ演じるキャラクターの設定=ラブストーリーの半分以上)当たり前のことで、それに適応できないのならばこの映画は全否定するしかないんじゃないかと思う*3
だいたい、この映画は『HERO』とは違って、シーン全てがラブストーリーに向けて仕向けられており、そのため『HERO』と同じ枠組みで語っても不毛なだけだ*4。だから、この映画に関してはチャン・イーモウらが「愛について<どのように>語ったのか」だけが、ぼくの興味となる。
例えばこの映画の物語の中では、「誘惑する者/誘惑される者」という図式的な対立関係と、その「反転」とが二重に仕掛けられている。それは物語序盤のレベルでは「誘惑する者=金城武/誘惑される者=チャン・ツィイー*5として進行していくのだが、中盤で反転し、実は「誘惑する者=チャン・ツィイー/誘惑される者=金城武」であることが観客に明かされる。
これは意図のレベル、彼らキャラクターを操る「政治」のレベルにおいては、ナラティブの主導権が朝廷から反乱軍へと移ることを意味する。実際、この映画の物語は、あるシーン*6を境に大きく二つに分けることができるのだが、ラブストーリーについてもこの点を前後として二分することができる(金城武演じる金と小妹との「愛の醸成」と、アンディ・ラウ演じる劉を加えた「(三角関係的)愛の展開」)。
前半について言えば、金と小妹とが追っ手から逃げるシーンの連続であり*7、この「ともに逃げる」という緊張感と表情の動きとから「愛の醸成」を描こうとする監督の意図が見え隠れする。そもそも、金城演じる金は「追っ手(もちろんだが、実は同じ役人仲間*8)≠役目」と「役目」と「小妹」との間で逡巡するわけだが、その逡巡自体が込み入っているためキャラクターだけで「愛の醸成」をかもし出すことができない。そこで、この「ひたすら一緒に逃げる」という手法である。危機的状況を共有させることで恋愛関係が発生させるというのはありふれたやり方だが*9、ここでは金に自由人的な性格設定を与えることや、小妹を守るために再び彼女のもとに戻るシーンを付け加えることで、それを物語的に強化している。
けれど、そうした(ありふれた)物語的強化よりもなによりも「愛の醸成」を観客に印象付けるのは、チャン・ツィイーの手を引いた金城武が竹薮の中を走り続ける画だとぼくは思う。「この人の手を離さない。僕の魂ごと離してしまう気がするから」という、ICO*10的なイメージの持続。言うまでもなく、「逃げる」という状況それ自体がトリスタン的恋愛*11の根幹要素である「障害」を示しているのであり、また帰結としての「悲劇」も示唆している。そうしたイメージに彩られたこのシーンが、愛の芽生えと醸成との場面に使われたことによって、いささか性急過ぎるこのラブストーリーを肯定的に見ることがぼくにはできた。
さて、そうした前半部分は先に述べたシーンで反転する。その反転自体は別に複雑でもなんでもないのだが、それによって明らかになる劉*12の小妹への想いによって、物語は「三角関係的愛の展開」へとなだれ込む。
この後半部分については例えば、「持続する愛」を「急速な愛」に対比することで「愛に理由はない」的なメッセージを盛り込んでいる、みたいなことも言えるのだろうけれど、そこらへんはたいして興味をひかれなかった。結論としての悲劇は予想通りで、それは「恋愛情熱」の帰結に忠実でありすぎるために、(ぼくには)たいした感動も発見もなかった。
ただ物語上の難点としては、中盤の反転が急であったために、とりわけアンディ・ラウ演じる劉のキャラクターに急激なカーブが発生してしまい、それを曲がりきったあとの視点から映画の前半部分を見ると、物語の構造上不自然な部分があるところだ。例えば前半の娼館での場面、アンディ・ラウの前でチャン・ツィイーが舞を演じ、そのあと刀を交えるシーンなどは、華やかさその他の点で「映画」には必要かもしれないが、物語としてはそこまでやる必要はない。だいたい、映画の後半では娼館の女将が反乱軍の幹部であることまで発覚するのだから、物語世界内の視点に立つならばこれは「ままごと」みたいなものになる。
さらに個人的な不満を言えば、この映画で描かれたラブストーリーは世界があまりに小さく、先に述べた「政治」のレベルが設定・用意した枠から離れていない。もちろん、「政治」を破壊するようなものにはなっておらず、せいぜい自分たちが破滅する程度のものである。それはそれでいいのだが、「恋愛情熱」は社会体制や自らを律しようとする規範と相克関係にあるという「ルージュモン的主題」の再生が、再び「個人の死」のみに帰結することには何の新しさもない。
この舞台設定とキャストならば、(少なくとも)歴史を変えてしまうようなラブストーリー*13が観たかったと*14、そんなことを思って映画館を後にしました。


ぜんぜん関係ないけど、チャン・ツィイーが好きで小西真奈美が嫌い(あるいはその逆)って人は、いるのだろうか?


*1:ワダエミ。衣装についてほめられる映画のほとんどは、彼女の担当する映画のような気がする。分からないでもないけれど、なんか偏っていませんか

*2:毎日新聞かどこかの夕刊にもそんなレビューが載っていた

*3:というか、難点(後述)はあるが少なくとも「複雑ではない」と思うのだけれど

*4:もちろん、「映像はいい」とか「アートとして観るなら」とか、そういう感想を読んだときに感じる「あの」不毛さについては言うまでもない

*5:チャン・ツィイー演じる娘を泳がし共に行動することで、反乱軍のアジトを見つけようとする意図のもと

*6:金城武が反乱軍に捕縛され、チャン・ツィイー演じる小妹の正体が明かされるシーン

*7:もちろん、そこに派手なワイヤーアクションがからむ

*8:役目を果たすために、途中から彼らを殺す状況となる

*9:映画『スピード』などなど

*10:プレステソフトの『ICO』ね

*11:中世騎士物語の「トリスタンとイズー」。ロマンティック・ラブの源泉として多く参照される

*12:アンディ・ラウ演じる劉はもともと反乱軍の人間であり、スパイとして役人になっていた

*13:島田雅彦の「無限カノン」三部作じゃないけれど

*14:<ラブストーリーは「生き延びよう」とするときにいやおうなしに「政治的なもの」を破壊しようとするのではないか>という感覚がぼくにはある。そしてそれは「美的」なものからは程遠い