『華氏911』など

旬から外れるとあまり意味がなくなってしまう種類の映画だと思ったので、いくつかの選択肢の中から『華氏911』(監督:マイケル・ムーア)を選んで見に行く。以下、ちょっとした感想、考えたことなど。
ムーアの作品を見るのは前作『ボウリング・フォー・コロンバイン』以来の2作目で、『ボウリング・・・』を面白く見たぼくは、評判がいろいろ騒がしい今回の作品もけっこう期待していた。だいたいぼくは話題作というのが「嫌いじゃない」し、ほとんどの映画を面白く見ることができる幸せな才能を持ち合わせているのだ。
ところが、結論から言うと、この作品は正直なところ、その(ぼくの勝手な)期待に答えるだけの内容ではなかった。
まず、途中で飽きてしまった。
はじめのころこそ快調に笑い続けていたぼくだったのだけれど*1、内容の大半はすでにどこかで聞いたことのあるもので、そういう意味での目新しさが少なかった。それに、前作ではマイケル・ムーア自身がいろいろと行動して(画面に登場して)いて、それが物語の導線というか展開の軸、つまり「動き」になっていたと思うのだけれど、今回彼はほとんど登場せず、「すでにどこかで見たことのある」映像をサンプリングしてムーアの説明をくっつけただけ、みたいな印象を受けた。つまり、「発見」がなかったのだ*2
次に、問題が矮小化されている気がしてしまった。
この映画で断罪されているのはブッシュである。サウジ王家と関係の深いブッシュ、カーライル社を媒介としてビン・ラディン家と共犯関係にあるブッシュ、いくつも会社を潰したブッシュ、いくつもの、そしてたった一人の否定すべき人間ブッシュ(そして、その背景としてのネオコン共和党・主要メディア)。
ぼくは最近たまたま『エアフォース・ワン』(監督:ウォルフガング・ペーターゼン)という、悪夢のようなハリウッド映画を見たのだけど*3、その描かれ方を見て驚いたのはハリソン・フォードが演じたアメリカ大統領の扱いだった。
超人的に強い大統領という設定がコメディにならない点もさることながら*4、ぼくが驚いたのは、例えば物語の終盤でミグ戦闘機に襲われるエアフォース・ワンの身代わりにアメリカ空軍の戦闘機が飛び込んでミサイルの被弾を防ぐ(もちろん、このアメリカの戦闘機は爆発する)場面などが、いかにも自然なことのように描かれ、そして何もなかったかのように流されてしまうことだった。
確かに、軍事的なヒエラルキーにおいてはこうしたことは「当然」なのかもしれない。だが、それでいてこの映画の大統領は負傷した部下を先に脱出させるなど、そうしたヒエラルキーから逸脱する行為を行ってもいる。
この映画の興味深い点はそこにある。つまり、特権的な立場である大統領についてのみ各種のヒエラルキーを逸脱する権利が与えられており、よって情緒的な物語性(最高司令官である自分よりも先に負傷している部下を脱出させる、家族への愛を優先させる、などなど)はそこに偏った形で分布している。つまりこの作品の中では、大統領のみが情緒的な物語にコミットできるのだ*5
さて、話を『華氏911』を戻す。例えばこの映画の一場面、インタビューの中でブリトニー・スピアーズは「大統領についていくべきだわ」*6みたいなことを話すのだけれど、そこで(ブリトニーにおける父的なものの不在といったような)個人的な領域*7に入り込まずとも、ぼくにとってやはり気になるのはアメリカ的手続きによって大統領になった人間への信頼というものが、例えば多くの民主党支持者やマイケル・ムーア自身がブッシュを「(アメリカの)恥」と呼んでいるように、いわば「家族」のカテゴリーの中で語られていることにある。
「恥」というものが「面目」と関わっているのは手元の辞書を引くまでもない。自分の中で完結する場合ももちろんあるけれど、基本的に「恥」は「外」に対して、第三者的な視線に対して喚起される感情だといえる。昔、「日本は恥の文化で欧米は罪の文化だ」とかいう一般化がなされたことがあったように記憶しているけれど、その言い方は言外に日本の閉鎖性・内輪性を批判する文脈で使われていたものだったと思う。日本は家族主義的だといわれていたのだ。
で、『華氏911』のなかでぼくが一番気になったことは、ムーアがブッシュ的状況に対する批判者としてイラクで息子を失った母親*8を登場させ、その映像が後半部分のメインとなっていることである。
言うまでもなく、ここで焦点化されているのは息子を失った母親の悲哀であり、「家族」である。大統領という、特権的に家族性(情緒性)が許されている存在に対して、「家族」をぶつける。同格のものをアンチテーゼとして持ってくるというのはオーソドックスなやり方だと思うし*9それなりに効果があるのだと思うけど、ありふれているし、それは理性ではない土俵上の戦いでもある。
そしてなにより、すべてを「家族」的な問題で覆ってしまうことは、「家族ではない者」たちから不可視な領域を作り出すことでもある。この映画を見て問題が矮小化されているとぼくが感じた理由がここにある。つまり、すべて家族の問題、「国内問題」ですか?と感じてしまったわけだ。
もちろん、これが来たる大統領選挙に向けての宣伝映画としての意味を持っている以上、そうした描き方もありなのかもしれない。でもそれは、すくなくても戦争の描き方ではないとぼくは思っている(それが戦争の描き方だとすれば、例えば昔なつかしの小林よしのり戦争論』なども積極的に肯定しなければならないわけだ)。
ただ、くしくもブッシュと『華氏911』とに共通する、この「家族」という内輪性の前面化こそが現在のアメリカが陥っている隘路なのだとしたら、その厄介さは他人を受け付けないところにある。そんなことは、在日の人たちに選挙権を与えず、移民もほとんど受け入れないこの国に住んでいるぼく(たち)には、呆れるくらいに当たり前のことなのだ。


*1:笑っているうちに悪夢は進行するのだから、こういうぼくの態度は決していいものではないのだろうけれど

*2:この映画を批判する際によく言われているような、「プロパガンダ映画であることでこの作品を否定すること」にはあまり意味がないようにぼくには思える。だいたいのところ、周りに「プロパガンダでない」ものを見つけるほうが困難な社会であり時代なわけだから。だけれど、プロパガンダ映画であることに居直ってしまうことの一番の問題は、予想外の画角からの侵入物を防いでしまうことであり、物語の力学が製作者の意図を超えて紡ぎだす雑音をそれが掻き消してしまうことにあるのだと思う。素晴らしいプロパガンダ映画は「発見」に満ち溢れていなければならない

*3:Uボート』や『ネバーエンディング・ストーリー』をつくっていたペーターゼンはいったいどこへ行ったのだろうか

*4:超人的に強い日本国首相を想像してみよう。コメディ以外の何かだと考えること自体が不可能だ

*5:あるいは、女性副大統領。閣僚の中で一人だけ大統領の罷免状にサインしなかった(大統領の特権=情緒の占有を国家というレベルから守った)ことによって

*6:正確にどう言ったかは、記憶が曖昧です

*7:あるのかどうだかは知りませんが

*8:詳しくはhttp://www2.asahi.com/special/iraqrecovery/TKY200408130223.htmlを参照のこと

*9:ただ、ここではテーゼ=アンチテーゼになっているので、弁証法は成立する予感すらないけれど