エアコンから自由へ

先週、部屋のエアコンが壊れて思ったこと。
暑いのが苦手なぼくは冷房が効かなくなると何もできなくなってしまって、日記の更新どころか各種本当にやらなくちゃいけないことにまで手がつかなくなる。
でも空調設備が整っていなかった時代というのはそんなに遠い昔の話ではなく、実際ぼくらの親の世代には真夏でもせいぜい扇風機程度で受験勉強などもやっていたはずで、ただぼくに堪え性がないだけの話だといわれればそれまで、その時代に生まれていればその時代なりになんとかやっていたのだろうとも思うのだけれど、ただ現にぼくは冷房のある部屋の中で受験勉強から社会人生活までを経験していてその事実は変わらなく、その結果こういうふうな身体になってしまったわけだ。
で、これからの話である。
こんなふうな身体になってしまった以上、例えば電力不足の真夏に原子力発電を停止しろとはいえなくなるし、地球の温暖化と二酸化炭素の排出量との間の因果関係がどうであれ、平気な顔をしてツバル諸島(水没しつつある国として有名)あたりまで出かけるというわけにはいかない。言ってることとやってることとが違うというやつになってしまうし、しかもそのやってることが身体のレベルで雁字搦めになってしまっているのだから始末に終えない。
とはいっても、そういった事実に居直って現状の維持ばかりを願う保守的な人間というのもどうかと思う。そういう身体を持っていても、自然エネルギーの開発を進めることはできるし、水没する国からの移民の受け入れ態勢を整えることも、可能性としては十分にありうることだ。ありうるというのはつまり、そういう身体を抱えたままでもできることという意味になる。
「すりかえる」ことは大切なことだ。それは常にひとつのことに対してオルタナティブを用意し続けることでもある。で、自由がないということは結局、このオルタナティブが用意できるかできないか、その点に関わってくるのだと思う。