K-1の終焉(6)

前回からの続き。



(6)
そしてこのマンガ*1の帰結は、今後の格闘技を考える上で非常に示唆的なものだとぼくは考えている。
格闘技界において80年代に起こった新たなリアルを求める運動は、「セメント」への志向と<「誰が一番強いのか」という身も蓋もない問いかけ>が、どのようにして「ショー」と整合性を保つのかをめぐって揺れ動いた。そしてそのバランスは、K-1による<「セメント」が「ショー」となることの発見>とともに大きく傾き、その問い自体が消滅した(かに見えた)。それと同時に、格闘技そのものの一部を占めていた「過剰な物語性」もまた、不要なものとして消え去ることとなった。「ファンしか語れないプロレス」に対し、K-1については誰もがテレビを通し観て語ることができた。
しかしながら、K-1が手なずけたはずの「セメント」への志向、そして<「誰が一番強いのか」という身も蓋もない問いかけ>は、実はそれ自体が自立性を持った「過剰なもの」、突き詰めればそこには「破滅」しか待っていないような純粋なものだった。その純粋さは、第三者的な要素・制約(それはルールであったり、あるいは審判であったりする)を排除する方向に進む。この力学が作用することによって、K-1は自らの枠を超えて「総合格闘技」へと進出することとなる。それはK-1自身の「ジャンル化」を生み、統合するカテゴリーは統合されるカテゴリーへと容易に転換する。
つまり、<「誰が一番強いのか」という身も蓋もない問いかけ>そのものが、純粋で、ある意味原始的でもあるひとつの「物語」の形なのである。常に解決が先送りされる主題*2、そしてその行き着く先が「悲劇」「破滅」であるしかないような主題。「死」をもってしか終わらない主題。それはあまりに単純であるがゆえに「からっぽ」であるかのように見える、ある種の過剰さと似ている。すなわち情熱恋愛との並行関係、ロマン主義の原点である。<「セメント」が「ショー」となること>を発見することによって、K-1はプロレス的なものが必死に覆い隠していた「純粋な物語*3」を掘り返し、ロマンティックを回帰させてしまった。そして、ひとたび復活したこの物語はオートマティックに発動し、K-1は、そしてほかのあらゆる格闘技は逆にそれに振り回されることとなったのである。



とりあえず結論まで到着。
次回、関連したことに触れて今度こそ終わりにしよう。

*1:修羅の門

*2:これは『ドラゴンボール』にも通じる。もっとも強いキャラとの戦いに勝っても次の瞬間には新たなステージが現れ、孫悟空はより強いキャラクターに挑まなければならない

*3:先に「からっぽの過剰さ」といった形で言及したものの正体