K-1の終焉(5)

(4)からの続き。



(5)
ここまで、80年代プロレスで生まれたUWFという特異な運動が提出した「リアルをめぐるいくつかの問いかけ」をたどることで、K-1の成功と(現在の)衰退の理由を簡単に見てきた。そこで問題となっているのはK-1のジャンル化であり、それゆえのヒエラルキーの再編である。K-1は確かに現在の格闘技界ではもっともメジャーな興行団体であり、それゆえにその基盤の安定性と自立性には高いものがあるが、このままでは後期RINGSがまるでPRIDEへの人材派遣会社(ほとんど2軍)となっていたことと同じような事態がK-1にも訪れるかもしれない。そして、それを避けるために他団体と交流し、自ら*1総合格闘技」のルールを採用した興行を開催することは、K-1が当初持っていた「分かりやすさ」を侵し始めている。これではまるでバブル期に流行った多角化経営とたいして変わらないのだ。
さて、先にぼくはUWF以後の格闘技界の流れを追うひとつのキーセンテンスとして、<「誰が一番強いのか」という身も蓋もない問いかけが、だれによってどのように「現実」に着地していったのか>を挙げた。それを、80年代に「時代のリアル」を問いかけたUWFという運動の不可欠な副産物として考えたわけだが、こうした想像力に寄り添う形で生まれたマンガのひとつに『修羅の門』という作品がある。
1987年に連載が始まった川原正敏修羅の門*2講談社)がUWFの影響をまともに受けていたことは、初期から登場するプロレスラー「飛田高明」の設定*3やその名前*4を見るだけで明らかである。このマンガは古武術の使い手「陸奥九十九」を主人公として、まさに<「誰が一番強いのか」という身も蓋もない問いかけ>を展開していった格闘コミックなのだ。
陸奥九十九は数々のライバルたちと出会いながら、空手編、異種格闘技編、ボクシング編、ヴァーリ・トゥード編と戦いに勝ち続ける。そのへんについては細かくは触れないが、この物語の中には<「誰が一番強いのか」という身も蓋もない問いかけ>が導く帰結に関して、興味深い点がいくつかある。
まず構造的な点について。この物語の中では主人公である陸奥九十九の内面に関する描写がとても少ない。このマンガでは<戦う人物×戦う人物>:<観戦/解説する(複数の)人物>というシンプルな構造*5が繰り返されており、ナレーションは後者に属している。つまり、格闘技を「語る」という行為自体が、主人公のものではなく「第三者」のものとなっているわけだ。「戦い」がこのマンガの中心(その分量のほとんど)であるために、必然的に「だいたいいつも戦っている」陸奥九十九の内面は描かれずに、それは観察者が推察することで補われている。延長線上に、「ドラマ」も観察者が用意することになる。
このことは、「格闘技の中心がいつもからっぽ」であることを示唆しているとぼくは考えている。UWF以前の*6プロレスを思い起こしてみよう。なぜプロレスは過剰な物語性に満ちているのか。先にぼくはその理由として、「セメントが不可能であるがゆえの、その代替物」である可能性に触れたが、それにもまして、この「からっぽ」であることにプロレスが(無意識的に)気付いていたからではないだろうか。「戦い」は常に「過剰」であり、それに添えられる言葉や理由はあまりに小さすぎる。だとすれば、物語もまた過剰ならざるをえない。
次に、「セメント」がもたらす帰結について。この『修羅の門』のなかでは、主人公と戦うことによって「死んでしまう」キャラクターが3人ほど現れる*7。それぞれ極限状態に至った死闘の中での死であり不可避なものとして描かれているわけだけれど、このことは「あきらめずに戦い続けることは必然的に死を呼び起こす」という論理を浮かび上がらせる。マンガの中のこれらの死闘の中では、審判がまるで機能していない(ボクシング編での最終戦、アリオスとの戦いに関しても同じことが言える)。ここでは「勝敗」を決めるのは審判でも神でもなく、戦っている当人たちであるわけだ*8
言葉遊びになるけれど、「真剣勝負」とは文字通り「真剣」による戦いである。そしてその決着は他方が斬られること、その死によってのみ明確となる。「セメント」の帰結とは第三者を排除した戦いの純粋化であり、それはこのようにいつも「悲劇」に終わるのである。
最後に、ここまで触れてきたことは「戦いの不可能性」「格闘マンガの不可能性」を導き出す。真剣であるがゆえに死は不可避となり、そしてそれを乗り越えるすべはないのだから悲劇は繰り返される。そして、死とは物語の中断であり直接的に言及することが不能なものだ。
だからこそ、現在『修羅の門』は長い休載期間*9に入っているのである(それに対して、その番外編である『修羅の刻』はゆっくりではあるもののコンスタントに巻を重ねている。歴史に材をとったドラマであること、そして物語によって主人公の異なる短編であることがそれを可能にしている)。この長い休載こそが、この格闘マンガが示唆した<「誰が一番強いのか」という身も蓋もない問いかけ>の帰結でもある。陸奥九十九は戦い続けるだろうが、もはやそれを語るすべが残されていないのだ。



次回に続く。
今回で終わりにするつもりだったのに。。。

*1:メジャー団体であることや選手層の厚さを頼みに

*2:キーワードリンク参照のこと

*3:「真日本プロレス協会所属。フランク・クラウザーの弟子。真日本プロレスをクビになりながらも全日本異種格闘技選手権に出場し、3回戦で九十九に龍破をくらい、敗退。大会後、RWFを旗揚げする」http://homepage2.nifty.com/slaves/comics/shura/mon_02.htmより

*4:前田日明高田伸彦をもじっている

*5:格闘マンガであるためそれはとても自然なのだが

*6:いまもそうだけれど

*7:そのうちの一人は主人公がまだ少年だったときに「殺してしまった」兄であり、そのことが九十九が戦い続ける大きな理由となっている

*8:ボクシング編での九十九の言葉より

*9:もう7年以上になる。再開はありえるのだろうか