「政治」の周辺

部屋から駅までの道筋に、いまだに選挙の掲示板が立っている。受かった人も落ちた人も分け隔てなく並べているその大きな板に立ち止まったところで、ポスターから何が当落の違いなのかを読み取ることは難しい。
中には「母として起つ。」と書かれたポスターなどもあって、名前の脇には「ママフェスト」などという言葉が添えられている。
ダジャレらしい。
だいたい、「母として起つ。」とはどういう意味なのだろう。「母」というのは一義的には血縁からみた個人の属性なのだから、例えば「父として起つ。」とか「祖父として起つ。」とか、「息子として起つ。」とかと同じようなものなのだと思われる。ちょっとヒワイだ。
それはともかく、一昔以上前、政界には「マドンナ旋風」なるものが吹き荒れたことがあった。ほとんど教科書の中の出来事だけれど。「マドンナ」という言葉からも分かるように、そこでのキーワードは「女」だったのだと思う。男女雇用機会均等法が施行され、誰もが理解しておかなければならないフェミニズムの大衆化された形として、「マドンナ旋風」が起きた。
「母」と「女」。確かに、いまの時代に「女」を立脚点として何かを語るのは難しいと思う。直截に過ぎるし、そもそもそれもまた「所与の属性」としてのみ、政治の場面では消費されたのだから。だからこそのマドンナ「ブーム」だったのだ。
で、「母」である。
未来に責任を背負っているのは「母」だけではない。さっきの話で言えば、父だって祖父だって息子だって娘だって、みんな同じようになにかしら背負っている。けれども、「母」以外が「〜として起つ」と、ちょっとわけの分からない言葉になってしまう。「母」は魔法の言葉である*1
なんでも、この候補者は当選したらしい。
世の中は進歩しているのでしょうか。それとも、進歩などというものはやはりないのでしょうか*2



(追記)
某新聞のテレビコマーシャルで、「石原慎太郎のようにはっきりとした視点で物事を考えてみたい」みたいなことを言ってるのがあるけれど、あれはマスコミとしては相当に致命的なCMじゃないのだろうか。現役の政治家の名前で部数を伸ばそうとする精神にジャーナリズムの何を期待できるのだろう(それ以前の問題ですが)。最近見なかったのでさすがに気づいたのかと思ったのだけど。
何がなんだかよく分かりません。


*1:「産む性」としての「女」ですらなく、「産んだ人」という血縁属性をほのめかしているのは言うまでもないが、果たしてそれだけでこれほどの魔法っぷりを発揮できるのだろうか

*2:選挙戦略としては分かりますが、それでもフェミニズムの議論がすべて置き去りにされているのではないかと呆然とします