松浦亜弥の表情は豊かか?

サッカーをテレビで見ていて、そのハーフタイムのCMに松浦亜弥が出ていた。紅茶のCMだと思う。その瞬間ぼくの頭にひとつの疑問が浮かび、結局、後半はじめサッカーのほうは気もそぞろになってしまった。
疑問。「松浦亜弥の表情は豊かなのか?」という疑問である。
ぼくの乏しいテレビ経験から考えると、松浦亜弥は正統的なアイドルの系譜に連なるものとして見られていると思う。中途半端な「アーティスト」などではなく、「アイドル」として。アイドルとして松浦亜弥は自己を演出しているし、周りも安心して彼女をアイドルと見ている(気がする)。
アイドルにとって笑顔は大切である。80年代ならば「不機嫌なアイドル」も存在しえただろうが、現代においてはそうはいかない。アイドルは一般市民の想像力を裏切ってはいけないし、またステレオタイプを怖れてはいけない。もっといえば、「新しくてはならない」。
松浦亜弥はよく笑う。CMなんかを見る限りでもコロコロと表情を変える。見事なもので、ぼくは本当に感心してしまう。
ただ、自分の体調が悪いときなどには、ぼくにはとても、それが人間であるようには見えないのである。
80年代後半、高橋源一郎小泉今日子をして「凶暴な目をしたアイドル」だと評した。それが彼女の特異さ、アイドルたるゆえんだと感じ取っていたわけである。時代は変わり、年齢を重ねた小泉今日子は当然のようにアイドルではなくなり、松田聖子の娘は曖昧な立ち位置のために華ひらくことを許されない。そうした中で、松浦亜弥は一人アイドルを背負っている。独りで*1
表情の豊かさというのは、「見ていて飽きない」ということと深く関係があるんじゃないかとぼくは思っている。だとすれば、それは細やかにぼくたちの想像力を裏切るということ、裏切り続けるということなのかもしれない。そしてそれは、さっき言ったアイドルの条件と相反する。
結局、ぼくは次のように考えているのだろう。松浦亜弥が表現しているものは「松浦亜弥」ではない。彼女が表現しているものはぼくたちの中にある「アイドル」のイデアである。すべての表情は「誰か」に向けられているのではなく、アイドルのイデアを志向している。
だからこそ、そこに何も読み取れないほどに調子が悪いとき、イデアを読み込む体力が不足しているとき、ぼくには「彼女」が人間に見えないのである。
なんて言ってみる。


*1:詳しくはないが、モーニング娘。その他を松浦亜弥の担うカテゴリーに加えることはできないだろう