「好き好き大好き超愛してる。」

舞城王太郎好き好き大好き超愛してる。」(『群像』2004年1月号)を読む。以下、ちょっとした感想など。
舞城王太郎はぼくにしてはめずらしく、デビュー当時からわりとコンスタントに読んでいる作家だ。『煙か土か食い物』はなんどか友人に勧め、貸したりしたおかげでいまやぼくの本棚にはない。誰の手元にあるのかもいまいちはっきりしなくて、そういった意味ではぼくにとって『サイボーグ009』や『さようなら、ギャングたち』、『インディヴィジュアル・プロジェクション』なんかと同じ位置づけになっているともいえる。もっとも、『さようなら、・・・』や『インディヴィジュアル・・・』はもう一度買いなおしたわけで、『煙か・・・』もまた買いなおすかといわれればそれは微妙なところ。そう思わせるところにこの作家の特徴があるのじゃないかと、ぼくは勝手に考えている。
さて、「好き好き大好き超愛してる。」である。
一読してのぼくの脳天気な感想は、「これは舞城王太郎による、『世界の中心で、愛をさけぶ』じゃないか」というものだ。



と、考えたことを続けて書いたのだけれど、ちょっと長くてまとまりがないので削除*1。以下、その中からメモとして一部分を残しておく。後があったときのために。

 だいたいのところ、「メタ化」や「暴力性」を扱った作品などは世の中に数え切れないほどあるわけで、それを指摘しただけで何かを語ったような気分になってもたいした意味はない。例えば「作品論=コンスタティヴ」、「作家性=パフォーマティヴ」といった形で構成する言説を区分けしてみたところで、作家のパフォーマティヴは最初から最後まで「物語」に拘泥するしかない。
 「時代のリアル」的なものの消費の仕方は2通りあるとぼくは思っていて、それは「共感」と「批評」である。それは距離をゼロにすることと、保つということであり、また「共感」は入り込むがゆえに気持ちがよく、「批評」はメタ化の技術である。それぞれは単純には「読む」スキルと「書く」スキルとに対応している。ぼくの場合ここまで単純化してようやく、大塚英志『物語消費論』以降の消費分析のあり方を理解することができる。
 さらに言えば、現在の「批評の凋落」は「批評の大衆化」と同じことであり、それは「読む」スキル、というか「共感」のスリム化(あるいは幼稚化。好き嫌いキモいに代表されるような、それ以上さかのぼれない感覚の前面化)に対応している(といまのところ考えている)。

ちょい調子悪いなあ。


*1:なんか前も舞城王太郎についてはちゃんと考えるのを止めていた気がする(http://d.hatena.ne.jp/a-shape/20040510#p1)。まったく