種族としての「おやじ」のつくりかた

短い時間、例えば1〜3時間程度の飛行時間の飛行機に乗ると、飲み物やら食事やらですぐに客室乗務員が来てしまうので、眠ろうと思っても眠れない中途半端な時間が多くなる。なので、そんなフライトの時間を、ぼくはきまって読書の時間にしている。結果、搭乗前に新聞を受け取ったりすることもない。
ところで、忙しいらしい日本のビジネスマン、とくに「おやじ」としてカテゴライズできそうな人たちは新聞が大好きなようだ。今回ぼくが遊びに行ってきた韓国からの帰りのフライトは平日の昼間の便だったこともあってそういう人たちが多かったのだけれど、搭乗の入り口のところに置いてあった新聞は、ぼくが乗ったときにはずいぶんなくなっていた。
ちょっと気になったのでチェックしてみると、他社の新聞に比べて日経新聞の減りが激しいように見える*1。席についた後で周りを見渡してみたのだけれど、やはり「おやじ」は日経新聞かどこかのスポーツ新聞、というよりもその両方を手にしている人が多い。
ぼくの前の座席に座ったビジネスマン二人組もやはり、そんな「おやじ」だった。座っていきなりリクライニングを軽く倒し*2、それぞれが一通り読み終わると、日経とスポーツ新聞を交換し、また読み始める。気になる記事でもあるのか、ところどころを指差してお互いに知らせ、なにやら笑っている*3。スポーツ新聞だけでなく、日経新聞でも同じことは繰り返されるのだ。
それをみて何の根拠もなく思ったのが次のことだ。
すなわち、「日本のおやじは、日経新聞とスポーツ新聞とによってつくられているのではないか」という疑念である。
そしてここでいう「おやじ」とは、日本経済を中心となって支えている(とされる)人たちとほとんど同義なわけだから、敷衍して「日本経済は日経とスポーツ新聞で培われたメンタリティによって支えられている」と言ってしまっても、力技ではあるがそれほど強引でもあるまい。もちろん根拠はない。
新入社員として会社に入るとしばしば真面目な顔をした上司から言われる言葉のひとつに、「日経新聞を隅から隅まで読むように」というものがある。昔の小説か何かの話だと思っていたのだけれど、実際にぼくも数年前にとある会社で言われたことがある。不真面目なぼくは当然のようにそんな言いつけなど守らず、その会社もさっさと辞めてしまったのだけれど、たしかに「おやじ」予備軍を含めて、みんなよく日経を読んでいた。「おやじ」を定義していない以上、これは逆の言い方もできるわけで、つまりそうやって日経新聞を日々読んでいくことが「おやじ」ビジネスマンの必要条件であるとも考えられる*4
ところで、新聞というのはちゃんと読むとかなりの労力が必要になるものだ。目を通すだけでもそれなりの時間がかかる。よく朝食時に大手各社の新聞をすべて読むのが仕事人間を描く手段として使われている(というイメージがある)が、だいたい忙しい社会人にはそんなことは物理的には無理だとぼくは思っていて、できたとしてもただただ「情報」を視覚に通すくらいの意味しかないのではないだろうか。
そんなふうに考えると、「新聞はとりあえず日経だけ読んでいる社会人」というのはかなりの量に上るのではないだろうかとぼくは思う。で、楽しみのためにもう一紙を選ぶ。それがスポーツ紙である*5
でも、新聞という媒体としては両者は同じものだし、形大きさも変わらないものだから、その情報の受け止め方も並列となる可能性は高い。有名人のゴシップも、取引先のリストラも、昨日の野球の結果もその受け止め方においては同じなわけだ。ただ、「昨日の日経読みました?」というのは社長たちの会話として成立するが*6、「昨日の東スポ読みました?」は成立しづらいというだけの話である。
日本の社会の、そして日本の「おやじ」の特徴を考えるときに、この「日経新聞+α」という構図を中心にしてみるというのは意外と面白いかもしれない。ビジネス「おやじ」においては、(たとえ職種が違おうが、出世を重ねようが)ただこの「α」が変化するだけの話なのであり、だからこそどこを切っても似たような会話が並ぶのである。
そこまで言うと、言い切りが過ぎるかもしれませんが。


*1:日本の新聞は一日遅れで大手各社のものと、スポーツ新聞が並んでいた

*2:もちろん乗務員にすぐ注意される。なんというか、これもコントみたいなお約束だ。分かっていても止められない習慣ででもあるのだろう

*3:それを後ろで観察しているぼくも物好きですが

*4:もちろん、十分条件ではない

*5:あるいは「おやじ週刊誌」などの雑誌

*6:社会的地位の高い人にほど、この手の会話が多い。ぼくの経験上