『ビッグ・フィッシュ』

感動作という評判を頼りに、『ビッグ・フィッシュ』(監督:ティム・バートン)を見に行く。
先週の世界の中心で、愛をさけぶ』に引き続き、ここのところどうもメジャーどころを鑑賞作に選択している。ミニシアター系からはずいぶん遠ざかって。理由は簡単。銀座近辺はともかく、「映画を見るため」に渋谷とか恵比寿とか、ほんと行きたくないからです。電車ならほんの十数分の違いなんだけど。
ぼくはティム・バートンのいいフォロワーではなくて、例えば『シザーハンズ』は見たのか見てないのか記憶が曖昧だし*1、『マーズ・アタック』は確かに見たのだけれど内容をまるで覚えていない。『PLANET OF THE APES』に至っては誰かから前売り券をもらったにもかかわらずすっぽかすという勿体ないことをやってのけ(よって未見)、こんなふうに書いてくると、「ぼくはティム・バートンが嫌いだ」といっても、およそそれが間違いとは思えなくなってくる(ぼく自身にも)。
そんな位置づけのティム・バートンの新作の印象は、一言で済ませるのなら、「父と子の愛情物語という衣装をまとわせた、映画への愛の物語」ってところ。
それを支える構造について。
物語の軸は二層に分けることが出来る。それは「現実/虚構」であり、ストーリーの始まりにおいてはそれぞれが「子(ウィル)/父(エドワード)」に対応している。この映画のストーリーは「いまの父と子の関係」と「過去を語る父の(ほら)話」の二つの異なるレベルによって展開していく。それはまた、ウィルの視点をとるならば「父の死/父の生(人生)」という事態をも指し示すものともなっている。「父の死」という最終的な局面において、ウィルはその「父の人生」を虚構から現実の側へシフトさせようとしている。「ぼくに真実を話して」というウィルの願いはそれの表明に他ならない。死の間際という状況において、ウィルは自分の思考に近づけて父エドワードを理解したいと思っているわけだ。
まあこのへんについては、虚実入り混じったエドワードの話をコンスタティブなレベルのみでしか把握できずに、父の人生からフェイクを峻別してはじき出そうとするウィル(彼の職業は「適切にも」ジャーナリストと設定されている)の問題など、父と子の関係をたどってもなかなか面白い見方ができるのだと思う。ぼくが映画館でボーっと考えていたのは次のようなことだ。
つまり、「ビッグ・フィッシュ」って(ティム・バートンにとっての)「映画」のことじゃないか、ということ。虚実入り混じっているからこそ人の心を動かすことができて、「真偽値」よりも「伝達可能性」が重要視されることが多くて。
もちろんそんなものはほかにもたくさんあるわけで、また「愛情」の本質みたいなものをそちらに当てはめることはできる。けれどこう考えることによって、(この作品については)ぼくの中でいろいろなつじつまがあった。


まあ、他にもいろいろ考えてたと思うんだけど、あんまり覚えていない*2。だいたい、映画って「考える」メディアではない気がするわけで。映画というメディアは思考を促すという一点において事後的だと思う。受身であることを身体に求めるからかも。
以上。雑記になってしまった・・・。
泣けると評判でしたが、映画館の中ですすり泣く音はそんなには聞こえず。あらためて、『世界の中心で、愛をさけぶ』の泣かせパワーについて考えさせられました。


*1:この状態が一番厄介で、(もう一度)見なければいけないのかそれとも印象がないのだから放っておいていいのか、もうどうしたらいいのかも分からないので結局放置プレーということになる。ぼくには「映画への愛」はないので

*2:そういえば、ユアン・マクレガー演じる過去のエドワードのシーンはぼくに映画『フォレスト・ガンプ』を思い出させた。けど、あの映画については例えば「現代の寓話」とでもいった形容が適切なのであって、その「現代の」という、中途半端な事実との対応性がいろいろな意味で問題だというぼくの意識からしてみれば、正当にフェアリーテイルであるこの映画の過去シーンのほうをぼくは好む。もっとも、この『ビッグ・フィッシュ』ではこれらのシーンはあくまで映画を支える層の「ひとつ」であり、その点でも『フォレスト・ガンプ』とは比べられないわけだけれど