『世界の中心で、愛をさけぶ』(続き)

昨日の続き。引き続き、ネタバレ。
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原作(片山恭一)と映画(行定勲)との最大の違いは、そのテーマの比重をどこに置いているかの違いと言える。この映画版『世界の中心で、愛をさけぶ』においては、アキが死んだ後で朔太郎がどのように世界との関係性を回復するかを描こうとしている点こそが重要であるということを、ぼく自身の興味に重ねる形で昨日少し書いてみた。
ではそうした映画の試みは成功したといえるだろうか。
まず言っておかなければならないことは、この映画では朔太郎の「世界との対応不全状態」が十分には描かれていないということだ。昨日も触れたけれど、原作ではアキの死の直後の朔太郎を「語り手」としていることもあって、この「不全状態」が前面に押し出されている。逆に言えば、「語り手」としての朔太郎が対応不全状態にあることによって、原作は「せつなさや悲痛さ」を表現することに成功している。
それに対して映画の中の「せつなさや悲痛さ」は、<アキと朔太郎の幸せな瞬間を生き生きと捉えること>と<アキが発病から死に至るプロセスを丁寧に描くこと>によって、つまり明と暗のコントラストによって表現されているといっていい*1。強いてあげるなら、「1986年」にやりとりした「カセットテープ」を「現在」の朔太郎(とリツコ)が聞くという構成、すなわち「1986年」の物語を「現在」の朔太郎が<再生>しているという構造の中に、原作と同様の文法を(よって、世界との対応不全感を)見出すことも可能だろう。けれど、それは同時に「あのとき」の自分、「1986年」の朔太郎をも<再生>してしまうことになり、この自分の二重化によって生まれる距離のために不全感は十分に描ききれないことになるのだ*2(不全感が十分に描ききれていないということはそのまま、映画のテーマの下地となる「愛」が描ききれていないことに通じる)。
だが、こうしたことに拘泥していたのではぼく自身の興味にはいつまでたってもたどり着けない。そこで、ここからは、原作と映画とは別々の作品であることをあえて無視して、原作に対するひとつのアンサーとして映画のなかの朔太郎の回復を見ていく。
まず、この映画の中では朔太郎がアキの死に立ち会えなかったこと、死に目に会えなかったことが謎として提示されている。
それをとく鍵がアキから朔太郎への「最後のテープ」になるわけだけど、これはその配達人である少女リツコが事故に遭うことによって、「1986年」の朔太郎へは正しく配達されない。「最後のテープ」はリツコの下で遅延され、「現在」に至って再発見される。このことには二つの意味がある。
ひとつは、この「最後のテープ」が「現在」のリツコによって再発見されることで、この物語が始まるということだ。「現在」の朔太郎はこのことが引き起こしたリツコの<失踪>をきっかけに「1986年」を再生(PLAY)しはじめる。アキはこの映画の中では終始「観察される」対象なわけだけど、この「最後のテープ」においてだけは違う。つまり、物語の発端の再生(PLAY)自体を、アキの回帰として捉えることができるわけだ。
もうひとつの意味は、配達の「遅延」とテープの中のアキのメッセージとに関わる。
当たり前のことだけれど、本来、死んだ人間からのメッセージは届かない。霊媒師とか信じているのなら話は別だけれど、死んだ人間とコミュニケートすることはできない。この絶望的な断絶があるからこそ残された者は途方にくれるのだし、世界との関係性を失うわけだ。残された人間は文字通りたったひとりでこの脱臼した関係性を処理しなければならない。
ところが、この映画は「最後のメッセージ」の遅延配達によって、「現在」の朔太郎へとアキからの新しいメッセージが届いてしまう。そして、そのテープの中でアキはこう言う。「あなたはあなたのいまを生きて」と。
このメッセージ自体、ひとつの矛盾した役割を担っている。これはまるで「1986年」のアキが「現在」の朔太郎に向けたメッセージであるかのように受け取られるが(未来へのメッセージ/過去からのメッセージ)、それはあくまで「カセットテープ」の配達が遅延された結果であって、メッセージは本来的にはもちろん「1986年」の(まだ生きている)アキから「1986年」の朔太郎へのものであったわけだ。
つまりここでは、配達が遅れたことがメッセージの意味を変質させている。だとすれば、朔太郎の回復はまったくもって偶然的なものであり、それには遅延された分の「時間」が必要だったとも言うことができるのじゃないか(とぼくは思った)。
それと、この映画のテーマに対するひとつの結論は、「残された者にできることは、後片付けしかない」(山崎努)ということだ。この言葉に喚起されて「現在」の朔太郎とリツコはオーストラリアに行き、アキからの「最後のメッセージ」の通りにアボリジニーの聖地にアキの骨をまく。アキの最後の意志を完遂(=後片付け)しているわけだ。
しかしそんなことで「世界との関係性」を回復することができるだろうか。例えば、原作ではアキの死の直後に朔太郎はオーストラリアを訪れ、同様に骨をまいている。これもまた、アキの意志の完遂だと言うことができるだろう。しかし、そのシーンから感じられるのは朔太郎の悲痛な様子、「世界のすべてであった部分」を失った後の不全状態だけである。
このことをあわせて考えてみれば、やはり先に触れておいた(触れておきつつ、無視した)映画と原作との違いが、ぼくの興味にとっては決定的であることが分かる。つまり、原作が持っていたリアルと映画が持っているリアルとは別のものであり、後者が前者を引き継いで解決しているとは言いがたい。そしてその原因が、回復に「時間」を密輸入(し、さらにそれを肯定)する、映画の構造にあると感じるわけだ*3



とまあ、好き勝手なことを書いてきたわけだけど、だからといってこのことが映画の評価を根本的に切り崩すわけじゃないです。実際、「泣ける」指数は原作よりもはるかに高いし。とりわけ長澤まさみ森山未來の演じた「1986年」は若さと愛することの香ばしさを十分に表現していてよかったと感じたし*4。「輝き」から「せつなさ」への転調も成功していて、そのコントラストがいっそう泣きを誘うわけで*5。無菌室のビニールカーテン越しのキスシーンあたりで純愛路線は最高潮に達し*6、ここまでやるのならもう何があっても許そう*7と思いました。
ただ、だからこそやっぱり、「1986年」の物語構造をいじらずに(つまり、過去からのメッセージや、過去にも関わった存在としてのリツコに頼らずに)「現在」を描くことができていればなあ、と思うわけです。原作の最終章、大人になった朔太郎の、「はじまりと終わりにアキがいる」という感慨に、安易なカタルシスに物語を落とし込まない作者の誠実さを感じたぼくとしては。


追記。
主題歌、平井堅の『瞳をとじて』は映画にとてもあっていてよかったと思うんだけど、だからこそなおさら映画が始まる前の館内で繰り返し流すのはどうかと・・・(→新宿スカラ)。なんか感動先取りって感じで、「もったいないなあ」と感じた。
「泣ける」「泣けない」だけが映画の指標じゃないのはもちろんだけれど、この映画の場合はそれが映画を成り立たせる大きな要素になっていると思うので。

以上。


*1:島のシーン:鼻から血を出して倒れるアキによる、鮮やかな転調なども忘れてはいけない

*2:この違いは、原作と映画との文法の違いに帰着するような種類のものなのかもしれないけれど

*3:過去からの「新しい」メッセージなどありえないところに、残された者の絶望はあるのだから

*4:それに対して、「現在」を演じる大沢たかお柴咲コウにあまり魅力を感じなかったのは、ぼくが上記のようなことを考えていたせいなのかもしれない

*5:ぼくが見た新宿の映画館では、物語の中盤の時点であちこちから鼻をすする音が聞こえ始め、なかには少しきれいじゃない音とかも混じっていて、ちょっとどうかと思いました

*6:今井正を思い出しました

*7:ぼくが許したところでどうなるという話でもないのだけれど、費用対効果のレベルで