『世界の中心で、愛をさけぶ』

映画『世界の中心で、愛をさけぶ』(監督:行定勲)を見る。
原作を立ち読みで済ませたのがなんとなく悪いような気がして、まあその罪滅ぼし的な感じで映画館へ。原作とはちょっと違ったストーリーらしいという事前情報はあった。個人的な興味はひとつだけで、そのことについては追い追い触れていくことにする。
以下、ネタバレ。感想。


(1)
今回はストーリーの構造は中心的な興味ではないのだけれど、あとで思い出すときのためにちょっと整理。原作との大きな変更点は二箇所*1。ひとつは大人になった後の朔太郎(大沢たかお)に大きくスポットを当てている点であり、もうひとつは物語の牽引役として「カセットテープ」が重要な役割を果たしている点。
前者は、原作では最後にほんの数ページ描かれているだけ。後者は原作にはない要素で、映画の中で「1986年」のアキ(長澤まさみ)と朔太郎(森山未來)とのコミュニケーションの道具になるだけでなく、「1986年」のアキ/朔太郎と「現在」の朔太郎を結びつけ、さらに「テープ」を運ぶ(また、最後の配達を遅延させた)郵便配達人としてのリツコ(柴咲コウ*2)をもつなげる重要なメディアとしての役割を果たしている。
原作を読んだときに感想として書いたことの繰り返しになるけれど、ぼくの興味は「愛する人を失った者(残された者)はいかにして世界とのかかわりを回復できるのか」ということだ。ここでの「愛する人」とは、世界が世界であることを成り立たせている存在のことであり、そのことはすなわち事後的には、「全体=世界」が「愛する人=部分」によって担保されている(いた)ということを意味する。アキが死んでも朔太郎の世界は続くのであり、だとすれば「生きていく」ということは何らかの態度を示すということであるはず。
原作は「話し手の視点」を「アキを失った直後の朔太郎」に置くことによって、愛する者を失った状態の悲痛さを、世界が脱臼しているさまを明示的に表現していた*3。けれど、朔太郎が世界との関係を回復する姿については、話者が「現在」の朔太郎へと転換する最終章においても曖昧なままであり、作者は深く立ち入らない。このことは、原作の構造があくまで高校時代の朔太郎とアキと(の輝きやせつなさ)に中心を置いていることからくる帰結である。
よって、「愛する者を失った後で、どう生きるのか」という問題が残されることとなる。映画が「現在」という軸によって「1986年」を包む構造となっていることは、この問題に何らかのアプローチを試みようとしていることを示している。どこかのインタビューで大沢たかおも言っているが*4、この映画はその問題をこそ大きなテーマとしているわけだ。
ではそうした映画の試みは成功したといえるだろうか。朔太郎は世界との関係を回復したといえるのだろうか。



続く(長文になる予感がするので)。
残りは明日。


*1:細かい変更点を挙げたらキリないし、あんまり意味のあることとも思えないので

*2:少女時代を演じた子の名前は分からず

*3:と思う。立ち読みなので確認するのがウザいんです

*4:例えば、http://aiosakebu.yahoo.co.jp/movie/cast.html などを参照