『世界の中心で、愛をさけぶ』

世界の中心で、愛をさけぶ』(片山恭一小学館)。小説。いわずと知れたベストセラー。立ち読みしていたら、図らずも読了してしまったので。
以下、簡単に感想。
内容としては、「愛すること」(「愛」ではなくて*1)と「愛する人と永遠に別れること」がテーマ(と言ってしまって構わないだろう)。序盤でイヤというほどにその後の展開を暗示する話が繰り広げられ(死について。「担任の先生の告別式でアキへの想いを自覚する朔太郎」のシーンなどは示唆を通り越している)、ちょっとその構図的にすぎる物語が気になった。
とはいうものの、村上春樹ばりに浸透力のある(くせはない)文体は物語を牽引するには力十分すぎるし、「それがない世界を想像できないような、すべてを成り立たせているような存在(アキ)」を失ってもまだ(朔太郎の)世界は続いていくという事実に焦点化しているストーリーは、誠実さにおいて十分に成功していると感じたし、それなりに面白かった。
この小説で提示されるような、(例えば「愛する」という行為において)「世界の全体(あるいは世界という全体)」が「ある部分」によって担保されるという形態は、その全体を担保するもの(あるいは全体を形象するもの)の破綻によって、なかば必然的に「残された者」というカテゴリーを生む。とすれば、「残された者」はどのようにして世界を回復するのか。新たな形象を手に入れることができれば幸福だが、そういった入れ替え可能性を許さない(そういった可能性に対して閉じている)ことこそが「全体を担保するもの」の本質である以上、それは望むべくもない。
だとすれば、失われた「全体を担保するもの」を続いていく現実のなかに散らばらせて遍在させるか(形象という点において現れていたその「部分性」を解消する)*2、「残す/残される」の二項対立から「残された者」であることを逆説的に自覚的に引き受ける*3しかないのかもしれない。ならばもはや、それは単純にカタルシスには短絡しえない*4
この小説はぼくにそんなことを考えさせた。


最近「ロマン的なもの」があちこちに迂回した形で顔を出している気がする。原義についても調べておきたい。
追記。というよりも、現在ロマン的なものがどのような形で現れ、かつ「消費」されているのか、それを考えてみたい。そのためには系譜的な知識がより必要だろう、と。メモです。


*1:まあ、ドニ・ド・ルージュモンの言うように「恋とは状態であり、愛とは行為である」のならば同じことですが

*2:まさに、アキを失った後の朔太郎のように、続いていく世界のいたるところに(傍目から見れば)幻視的にその姿を見つけるようなあり方

*3:朔太郎の祖父のように

*4:すくなくとも前者においては