『CASSHERN』

先週末公開の映画を2本、見る。そのうち、今回は『キャシャーン』(監督:紀里谷和明)について感想を少々。もう一本のほう、『キル・ビル Vol.2』(監督:クエンティン・タランティーノ)の感想はパス。
以下、ネタバレ。例によってほとんど「物語」の側面にしか着目していないので、そこのところは注意。


まず今回は結論から書こう。映画がエンディングを迎え、宇多田ヒカルをバックにクレジットがスクロールし始めたとき、ぼくは「よくできた映画だ(言いたいことはよく分かる的なニュアンス)」と素直に感動していた。が次の瞬間、どこか物足りなさを感じ、そして再び客席に明かりがともるころにはその物足りなさが大きくなってぼくは思わずつぶやいていた。「よくできている。けど、これではダメなんだ」と。なぜそんな感想を持ったのか、以下そのことについて少し考えていく。
物語の序盤、ぼくはこの映画について、「想像力を現実化する手段を間違えている」という印象を持っていた。この映画は、冒頭の設定ナレーションから「新造人間」というフランケンシュタインの誕生・人類への反乱に至るまでは、アニメーションと親和性の高い物語軸に沿って展開していたからだ。実際、登場人物の描かれ方も過度にそれぞれの役割を先鋭化させた(その意味でマンガのキャラクター的な)ものであり、ならばアニメとして作ったほうが奇妙な齟齬(つまり、現実とは別世界という設定、ならびに「新造人間」という存在の異質性と、生身の役者が演じるということの現実感とのコンフリクト)は発生せず、記号的世界として作品が統一感・安定感を持つと思えたからだ*1。同じ理由で、映画内で時々挿入される、あたかも現在の日本のような映像(川べりで戯れる鉄也とルナの映像、など)も少し余計かなと感じていた。
しかしながら同時に、ぼくはこの映画の持つ想像力の方向性に共感を持っていた。とりわけ「新造人間」という、いわば新しい人類がフランケンシュタイン的に発生し自らを「人間」とは別の存在として定義づけ、それが「生きる」ことを前面に押し出している姿を描いている点について*2。言ってみれば、ぼくはここで「新造人間」たちを中心にこの映画を見ていたわけだ。このことは直近で『アップルシード』(あるいは『イノセンス』)を見ていたことや、ぼく自身の傾向性*3の問題でもあるんだけど。
ところが、ぼくの中でのこの二つの(「想像力を現実化する手段を間違えている」という印象と、映画の持つ想像力の方向性への共感)バランスは、物語の終盤に大きく崩れる。
終盤、最終的には「新造人間」の中で唯一生き残ったボスと西島秀俊演ずる上条中佐との対決シーンにおいて、「新造人間」は新しい生命体でもなんでもなく、テロリストの温床とされてきた「第七管区」の人々が復活しただけの(死体・肉体が再構成されただけの)存在であることが明らかになる。「オリジナルヒューマン?*4」(人間の原型)である第七管区の人々こそが新造細胞の持ち主だと考えられていた人々であり、彼らがテロリストと決め付けられていたのはその研究のための材料として彼らの肉体が必要だったから、そして研究の目的は連邦共和国首脳陣(老人)の延命という一点だったことが判明するわけだ。
ここにおいて物語のイニシアティブは「新造人間」から「人間」へと大きく転換する。「新造人間」もまた人間に過ぎないことが分かった以上、焦点化されるのは人間の業というか、その憎悪になる。「第七管区」の人々が前面に押し出され、東博士(寺尾聰)や内藤(及川光博)もまた彼らと同じ出自をもつことが判明する。ここで生じているのは優生学的な差別であり、またナンバリング(手首の数字)からの、ホロコーストにおけるユダヤ人のアナロジーである*5
このことは映画の終盤で20世紀の現実世界における戦争映像がサンプリングされて挿入されていることに象徴的に現れている。つまり、ここにおいてこの映画はまさしく「現実世界への批評性」を自らの特質として全面化するのである。
だとすれば、ぼくが序盤で感じた違和感(「想像力を現実化する手段を間違えている」という印象)は解消されることになる。実写であるということは映画を現実に引き寄せて観客に解釈させるし、はじめに触れた、あたかも現在の日本のような映像もまた、映画世界と現実世界とを短絡するための手段として大きな意味を持つことになる。極論してしまえば、この映画のテーマは最終的に「平和と愛」に帰結する。一種の「反戦映画」と言っていい。
こうしたテーマをぼくは否定しない。最後の鉄也の声によるモノローグはこの映画のメッセージだといえるが、その素直なやり方(メッセージ性)自体は好ましいものだし、ましてやいまの現実世界の現状に、安易な排他性や終わらない戦争を見出すことは大切なことだから。
ただ、そうした映画の構造は「新造人間」をヒューマニスティックなものへと回収してしまっているということも事実だ。先ほども触れたボスと上条中佐との対決シーンにおいて、上条中佐から知らされた真実と「お前たちも人間だ」という言葉にボスはショックを受けてしまうわけだが、そのショックを受けるレベルというのは「人間としての記憶」に、すなわち過去に起因している。「新造人間」としていまそこにある身体に着目するならば、すなわち「いまこの瞬間を生きる」ということに注目するならば、こうしたショックというのはあくまで相対的なものに過ぎないはずなのだ。なぜならば、ただの死体の再構成物であるにせよ、いやむしろそれゆえに彼(「新造人間」たち)は「ゾンビ」なのであり、上条中佐の言う「人間」を大きく逸脱しているものとして「すでに」存在しているのだから。
この点が、ぼくが鑑賞直後に持った物足りなさの大きな要因となる。「新造人間」を、既存にして現実の存在としての「人間」の領域に回収したということ、つまりそれを物語の「手段」としたことがぼくには不満だったわけだ。理由はもちろん、それが「わたしたち」の領域を拡大することに繋がらずに、ただただ「こうあるもの」としての人間像を反復することに他ならないからである。
もうひとつ付け加えるなら、この映画がエンディングで強調する「希望」とは何なのだろうか。「おれ(鉄也)とルナの子供」としての「希望」とは何なのだろう。単純に、「愛」とでも言っておけばよいのだろうか。理解力不足のせいか、そのことがぼくにはちょっとピンとこなかった。もしそうならば、登場人物たちの幸せそうな映像の挿入もまた、そうした「希望としての愛」をノスタルジーへ短絡させるという意味でちょっとひっかかる。
以上のような意味において、この映画は「現実世界に対する批評性」のレベルで(物語として)高度な整合性を保っており(辻褄が合っている)、その一種の「反戦映画」性はメッセージの素直さも含めて有効に働いている。ここでは触れなかったけれど、ほかにも「家族」の問題や反復される「父性の喪失とその再獲得」などといった観点から解釈することができるだろう*6
しかしながらその時点で、「生きる」というテーマ(とりわけ「新造人間」が「生きる」ということ)は消尽する。そのことは同時に、ぼくが物語の序盤で抱いていた「この映画の持つ想像力の方向性への共感」が解消されることにつながっているのだ。



以上、勝手な感想。物語を現実との照応関係のなかで構築することは大切なことだと思うが、それは決して前者を後者に回収してしまうことではない(とぼくは思う)。ぼくはこの映画のなかでは、イレギュラーとしての「雷」と神との関係性や、「新造人間」はなぜ「父」(東博士)を拒絶するのか(あるいは、なぜ「母」(ミドリ)を必要としたのか)というところに興味を持ったのだけれど、それらはいずれもなおざりにされていた気がする(まあ、上で述べたような構造上、そのことに意味がなかったのだろうけど)。
ぼくたちはまだ20世紀の想像力から自由になれないし、またなれるわけはないのだろう。映像はともかく、20世紀的な「愛と平和」の反戦映画というのが、ぼくの率直な感想でした。
まあ、そのメッセージはすごく大事なわけですが。


*1:オリジナルがアニメ作品なのだから当然といえば当然なのだけれど

*2:「新造人間」たちの言葉があまりに「人間的」である点(例えば唐沢寿明演ずるボスの言葉を参照。権利の強調やハムブラビ法典的な倫理観がにじみ出ていて、非常に人間的だといえる。まあ、このことも映画後半への伏線として、全体としては整合性を持っているわけですが・・・)はともかく

*3:「わたしたちはすでにみなサイボーグなのだ」というダナ・ハラウェイの言葉をレトリカルな意味以上に真に受け、その視点から(しか)希望を考えられないということ。このことは『イノセンス』への感想(id:a-shape:20040311から)や『アップルシード』のうがった読み方(id:a-shape:20040421から)にも共通している

*4:だったか、記憶が曖昧です

*5:そんなことをいったら、「新造人間」の王国はイスラエルということになるかも

*6:可能性としては。見る人がネタ的に食いつけそうな個々の要素が十分に処理されていない感じは、ちょっと否めないけれど