『自由を考える』

自由を考える』(東浩紀大澤真幸:NHKブックス)について。今回はメモ。ぼく自身の考えはほとんど入ってない。ナイスです。


いくつか重要な論点が提出されているが、なかでもぼくの印象に残ったのは、東が第Ⅱ章においてアニメ『ほしのこえ』に即して提示した、「恋愛の概念が持っている、相手は誰でも構わないのだという空無性(運命性)」という議論*1と、それに呼応する形で第Ⅲ章で大澤によって反復される、クリプキにおける「固有名に対する反記述説」から始まる一連の議論だ。
東の議論において重要な点は、そうした恋愛の「運命性」みたいなものが、恋愛の動物的側面つまり身体レベルでの性欲処理(愛に対する「諦念」)と両立しているということであり、その二つが個人の中で不即不離の形態をとっているということである。そこでは、この両者は二項対立するものではなく(すなわち弁証法的な道筋によって解決が期待できるようなものではなく)、平行的に共存している。そしてこうした形態は「オタク系」のみならず「出会い系」にも共通しているのではないかと、東は示唆する*2
また大澤の議論は次のようなものになる。すなわち「固有名」について、クリプキは「記述説」*3に対して「反記述説」、「固有名は、端的に、個体を指し示している」という考え方を提出するわけだが、大澤もまたこのクリプキの説を支持する形で管理型権力について分析する。つまり大澤は、固有名には記述に還元できない余剰(訂正可能性という余剰)があり、それに対してプロフィールとは個人のアイデンティティを記述に還元してしまうことだと考える。管理型権力は後者にコミットすることによって前者を、訂正可能性という余剰を損なう。こうした変容は、例えば現代社会において多重人格が流行していることなどとも深く関連している。
東は、こうした大澤の議論が「固有名」と「確定記述」とを二項対立的に考えている点に違和感を表明し、「匿名性」は「固有名」対「確定記述」という発想とは別の軸で考えなければならないと主張する。ここにあるのは東の次のような問題意識である。

確定記述はデータにすぎないし、データの集合では人の固有性は把握できない。これが、近代哲学の、というか、一般的な思想や文学の前提です。しかしそれは間違いかもしれない。今までデータから固有性を再生できなかったのは、私たちの技術や制度が追いついていなかったからだけかもしれない。高度な情報技術に支えられる管理型社会というのは、そういう可能性を考えさせる(P191『自由を考える』)

だがプロセスはどうあれ、二人が行き着くところは重なっている。このそれぞれ文脈が違う二つの議論は次のようにリンクさせることができる。
脚注1で示した東の議論は、「固有名」で愛するということが、そのまま論理的に「運命性」、つまり「相手は誰でもいい*4」というanyoneの考え方へ行き着くということを指示している。一方、大澤もまた、「固有名」を「訂正可能性」とした段階で、それが「他者」とのコミュニケーション(他者による訂正可能性)の中にあることを示唆している。「訂正可能性」は「それ以外の何か」という過剰への感覚であり、それは大澤の使う用語では「偶有性」に他ならない。すなわち、anyoneの考え方である。
と、以上。ほんとにメモです。



やっぱりひとつだけ。脚注で触れた「包括的全体的な承認」というのは、言ってみれば「神」の役割でもあったのだろう。そういう意味で「不全感」は性愛の領域だけでなく、人間の領域全体に拡がっている。そして例えば「人間性の回復」と言ったところ(要求したところで)で、それは悪循環に陥り、アノミーを増幅させる結果となる。その意味でも「人間性が終焉しつつあるという現象から背を向けるような解決ではダメなわけ*5」だ。この認識を前提とすることが、いまの世界でものを考えることの最小の条件だと(いまの時点でぼくは)思う。


*1:「相手を固有名で愛するとは、相手からいかなる属性が剥奪されても愛することである。たとえば相手が交通事故に遭って、意識がなくなっても愛し続けることができるのか。精神病にかかって人格が変わっても愛することができるのか。これはきわめて具体的な問題でもあるわけです。つまり、恋愛の概念を突き詰めていくと、相手が何ものであってもいいという、「運命的」というか、ある種空無化した概念に到達せざるをえない」(P116:『自由を考える』)

*2:宮台真司もまた、オタクとスティンガー(懐かしい呼び方だ)とに似た構造を読み取っている(速水由紀子との共著『不純異性交遊マニュアル』、以下同書を参照)が、彼の場合はロマンティック・ラブにおいて担保されていた「包括的全体的な承認」が、社会の変化に応じて婚姻やセックスが愛から切り離され、そして「社会関係の過剰に高い流動性」にさらされることによって損なわれている(きた)点を重視する。そのことによる「不全感」が、いわば循環的に、先の「包括的全体的な承認」を回復しようとする要求を強め、ますます流動性が高まる。結果、主体性をめぐる剥奪感が拡がり、その不毛さから性的コミュニケーションからの退却が進む、とされる。宮台においては、「不全感」を共有するという点でオタクとスティンガー(同書では出会い系とリンクして論じられている)は似ているのである。この方向性と東の議論とのズレには注意が必要かも知れない。▼また、同じようにロマンティック・ラブを扱いながらもそれを「純粋な関係性」の端緒とみなし、始まりにおいてもっとも人間的に豊かなコミュニケーションだったものが、現代においては2ちゃんねるのコミュニケーションやケータイによるつながりの確認のような、人間的にもっとも貧困なコミュニケーションへと帰結していると指摘する大澤の議論(本書より)も、宮台のそれと並置してみるとなお興味深い

*3:「固有名はその個体を特定できる、その個体の性質についての記述の束に還元できる」という考え方。この考え方に従うならば「固有名は、記述の代用品に過ぎない」ため、「固有名としての固有名は存在しない」ということになる

*4:あるいは、自分でなくてもいい

*5:自由を考える』、P210