『APPLESEED』

わりと楽しみにしていた映画が先週末に2本、封切りになっていて、少し迷ったんだけれどとりあえず『アップルシード』(監督:荒牧伸志)を見てきた。感想を少し。
映像については、例によって技術的なことはぼくには何も分からず。アニメとCGの幸福な融合とでもいっておけば口当たりはいいのかもしれない。実際、これを「アニメ」と言ってしまうのには、ぼくには少し抵抗がある。先日見た『イノセンス』の場合は、「アニメ」と言ってしまっていいように思っていたのだけれど。フル3Dであることに加えて、フォーカスインその他、実写映画のカメラのフレーミング使用が目立っていたからかもしれない。
まあとにかく、ぼくが考えてみたいのはストーリー。以下、ネタバレ。


(1)
以前に『イノセンス』(監督:押井守)について考えたときの道具立てが、原作者が同じ(士郎正宗)ということもあって、ある程度使えると思う*1。今回の場合でいうと、「ヒト」/「バイオロイド」/「サイボーグ」という区分になる。ただし、『イノセンス』がいらだつ主人公バトーに焦点化することによって「倫理の更新」とでもいうべき、「ヒト/サイボーグ/アンドロイド」という概念区分の解体(というか、無化)の場面と再構成の可能性を示唆していたのに対し、『アップルシード』においてはそれぞれの概念(カテゴライズされた区分)が属性の記述とともに登場人物に背負わされ、ストーリーのリードの役割を果たしている*2。単純に述べるなら次のとおり。
「ヒト」に与えられるのは基本的にマイナスの記述である。それはこの物語のなかでは「欲望の続く限り戦いをやめない」ものたちとして捉えられる。その側面の文字通りカリカチュアライズが「正規軍」のウラノスとハデスになる。
それに対する存在が「バイオロイド」になる。そもそもこの物語の舞台となっている「オリュンポス」は、「ヒト」の欲望の帰結としての「非核大戦」後の都市であり、この都市の平和はそうしたマイナスの要素を抱えもつ「ヒト」の社会を安定させるために生み出された「バイオロイド」が人口の半分を占めることによって実現されている。欲望を制御され生殖機能も持たない「バイオロイド」との共存こそが、「ヒト」を存続させる唯一の手段とされている。また、「オリュンポス」の行政は「バイオロイド」であるアテナによって担われている。
この行政院と軍とは対立関係にあるわけだが、このことはもちろん「バイオロイド」が「ヒト」のアンチテーゼとして提示されていることと対応している。そしてそうした関係を設定しているのが、巨大コンピュータ「ガイア」と七人の老人(パンフでは「七賢老」って書いてあるから、以下そう呼ぶことにしておく)からなる立法院である。
アップルシード』の物語の骨子は、この「ヒトとバイオロイドとの対立、およびヒトの存在に見切りを付けた七賢老による人類刷新計画」にある(もうひとつの軸となりえた、「主人公デュナンとブリアレオスとの恋物語」は、この骨子に対して後景に退けられてしまっている印象を受ける。このことは七賢老による「人類刷新計画」という主要な「物語」の、重要だがあくまで一つのコマとして、ブリアレオスやデュナンの役割が「物語」に包含されてしまっていることと関係している)。
こうした認識の下ですこし考えてみよう。
まず、この大きな枠組みは「ガイア」と七賢老の精神における弁証法的な展開として読むことができるのではないか、とぼくには思えた*3。すなわち、「人類(史)」というマスターナラティブにおける「自己意識」の実体化として「ヒト」をとらえ、さらにそのアンチ(他の「自己意識」)として「バイオロイド」をとらえる。そしてそこに「承認」を求めた、生死を賭しての闘争の開始をみる。奴隷と主人の弁証法とのアナロジーからすれば、「ヒト=主人」であり「バイオロイド=奴隷」として考えられるのはいうまでもない。そしてヘーゲルに従えば、この関係性は労働を契機に反転する(すなわちこの場合は、「バイオロイド=主人」へと)のだった。
こうした「人類」レベル*4での概念展開に加えて、七賢老が「バイオロイド」の生みの親のグループに属していることも大きな意味を持つ。上記の弁証法の齟齬は、すでに完成された思惟主体としての七賢老が、いわば事後的に精神史を捏造していることに現れている。つまり上記の展開においては、「承認」は「相互承認」ではなく、「ガイア」と七賢老という超越者による「承認」といえるのだ*5
要するに、都市形成・生体維持の工学レベルに加えて、(バイオロイドについては)発生レベルにおいても、「ガイア」と七賢老はこの世界における「神」といっていい存在(ヒツジの味方)なわけだ。だとすれば、そもそもこの人類刷新計画自体がキリスト教における創世神話の反復に他ならないことが分かる。「apple seed=りんごの種」であり、りんごはそのままアダムとイブとがエデンで口にしたあの知恵の実を連想させるからだ。もちろん、生殖能力そのものでもあるわけだけど。
すなわち、七賢老の持つ「バイオロイド+appleseed=新人類」という認識は、キリスト教の神に倣って「楽園追放を反復する」ということに他ならない。デュナンが七賢老に向けて放った「ヒトの原罪を新人類に押し付ける気か!」というセリフはこうした点からすれば、神への断罪の言葉としても受け取れる。彼らのやろうとしていることは、「バイオロイド」を新人類とすることによって「ヒト」の原罪を新人類に転嫁しているという構造に加え、新たな原罪をも発生させる形式に従っている(と、考えられる)からだ。



とまあ、物語の骨子についてはこんなことを思ったわけだけど、ぼくとしてはこれだけでは何も考えたことにならない。倫理的な視点が抜け落ちているから。「生殖機能」に注目し、またサイボーグ的な観点が示唆するものに注目しながら、次回考えてみたい。
この話、続く。


*1:ちなみに、この作品もぼくは原作本を読んでいない。だから以下の感想はあくまで映画『アップルシード』についてのみのものであり、同時に前提となる知識もあくまで映画内の知識に限られる

*2:この二つの映画の根本的な違いは、その区分に対して焦点化するやりかたの違いに大きく現れていると思う。このことが以下の感想の大きな論点を用意する(その点については次回)

*3:ヘーゲルの『精神現象学』からひとつの過程を取り出した感じで

*4:つけくわえれば、「ヒト」を超える「人類」という概念レベルを手に入れることによってはじめて、この刷新計画は可能になる。「人類」には当然「バイオロイド」も含まれる

*5:ここではもしかしたら「ガイア」ははずして考えたほうがいいのかもしれない。どの時点で「ガイア」が停止されたのかをちょっと見逃がしてしまった(確定不可能なのかもしれないけれど)