『APPLESEED』

引き続き、『アップルシード』について。以下、ネタバレ。あと、ぼくは原作本を読んでいないので、以下の感想はあくまで映画『アップルシード』についてのみのものであり、同時に前提となる知識もあくまで映画内の知識に限られることに注意。


(2)
前回確認したこの物語に対するひとつの解釈から、少しずつ離れてみる。
まず、結局七賢老による人類刷新計画を足早に確認しておこう。それは次の2つのプロセスを経る*1

1.appleseedによって「バイオロイド」を活性化し、発生の段階で取り除かれていた「生殖機能」をそれに付与する
2.D−タンクを解放し、ウイルスを発動させることによってすべての「ヒト」の生殖機能を停止させる*2

このプロセスによって「ヒト」は安楽死させられ、段階的に「バイオロイド+appleseed=新人類」の世界が生まれる。それが七賢老の計画のすべてである。
この計画はその中にブリアレオスとデュナンを組み込むことによって順調に進むが、結局七賢老が次の人類(新人類)として位置づけていた「バイオロイド」側が、具体的にはアテナ(行政院の長)が計画を拒絶しきる*3ことによって頓挫する(まあ、最終的にはデュナンとブリアレオスの活躍によって多脚砲台が食い止められ、それによって頓挫するわけだけど、それはヒーロー/ヒロイン物のパターンに過ぎないからぼくはあまり重要視しない)。
さて、前回ぼくはこの映画の骨子が「主人と奴隷の弁証法」の変容パターンにあると述べた。内在的ではなくて、神に自らをなぞらえたものたち(「ガイア」と七賢老)によってコントロールされた、神話の反復としての構造があると思ったわけだが、結果としてこの演出は「失敗」に終わるわけである。それは一義的には、奴隷が自らの出世物語を自分たちで否定したように、すなわち自らが人類史の主役として前面化/全面化することを否定しているように見ることができる。そのことは同時に、神(自分たちを生み出したもの)による「設定」からの、離反である。
しかしながら、これはもうひとつの起源からはいささかも離れていない。それは、「バイオロイド」が「ヒト」の生物学的操作から生まれたこと、「ヒト」を母として持ち、それに奉仕するものとしてプログラムされているという「設定」である。
そうだとすれば、これは「主人と奴隷の弁証法」が成立していない事態を意味する。さらに、ビルドゥングスロマンが世俗化された弁証法を構造として持つ成長物語だとするならば(というか、ぼくはそうだと思っているわけだけど)、これはその否定をも示唆している。はたして、そのように読み込んでいいのだろうか?
それは違う気がするのだ。
ここでちょっと図式を回転させてみよう。すなわち、ここまでの<「ヒト対バイオロイド」と、それを俯瞰する「ガイアと七賢老」>という関係図式を回転させ、七賢老と「バイオロイド」との間にテーゼ/アンチテーゼの関係を見るのである。
すると、ここまで「主人と奴隷の弁証法」を歪めてきた「神的存在による、事後的な精神史の捏造」という問題点はすっぽりと抜け、「バイオロイド」のビルドゥングスロマンがなにもなかったかのように成立する。このビルドゥングスロマンの成立は、主人公デュナンにおけるビルドゥングスロマンの成立(つまり、失われていた母ギリアム博士との思い出を回復することによって迷いや惑いを断ち切ること。これは通過儀礼の一般図式でもある)と呼応しあって、映画の物語性を高めている。
しかしながら、それでも問題は残る。なかでも一番大きなものは「ヒト」の位置づけについてだろう。七賢老においては見切りをつけた時点で「パーツ」になっていたその位置づけが、このビルドゥングスロマンの発動によって「バイオロイド」の共生の対象として浮かび上がってくるというのは一面的な見方としてあるだろう。だが、それは「ヒト」に奉仕する存在としての「バイオロイド」という、なんら変わらない関係性を原因として、それがそのまま結果に移行するだけという、極めて「ヒト」にとって都合のよい(その変化しない保存を唯一の目的とする)帰結を生み出しはしないだろうか。
ここに素朴の疑問が生まれる。
七賢老においては、「バイオロイド+appleseed=新人類」という認識が成立していることは先に触れた。だが、「バイオロイド」が「ヒト」の遺伝子を元にした、感情を抑制されたものとして存在されているということはそのまま、「バイオロイド+appleseed=ヒト」という等式が成立するということと変わらないのではないだろうか。appleseedが活性化と生殖機能を「バイオロイド」にもたらすとするのなら。
だとすれば、appleseedをアテナが拒絶し続けたということは、「バイオロイドがヒトになること」を拒絶し続けてきたということと同義になる(注3を参照してほしい。上記の人類刷新計画の2のプロセスについて、アテナをはじめとする「バイオロイド」は知らなかったと思われる)。それは「生殖機能」の否定であり、ダナ・ハラウェイにならって言うなら「復活よりも再生」に関わっているということである(サイボーグのメタファーを文字通りに受け取ってみた)*4。もしかしたら、このことに積極的な意味を見出すことができるのかもしれないが、いずれにせよ、この拒絶はやはり「ヒト」に奉仕するという「設定」を温存させておくことにも他ならないだろう*5
さて、「ヒト」の温存を手放しで喜べない者(ぼくのような)にとって*6、議論はちょっとした袋小路に入ったようにも思える。どうやれば脱出することができるだろうか。
その手がかりとして、ここでは主人公デュナンの種に注目しておきたい。デュナンは「ヒト」であり(パンフレットにもそう書いてある)、それ以前に「ヒト/バイオロイド」の区分のない外部からオリュンポスにやってきた存在である。しかしながら、物語が展開し、母であるギリアム博士(「バイオロイド」およびappleseedの発明者)との思い出を回復した段階において、彼女の種(「ヒト」か、それとも「バイオロイド」か)は外部記述的にも内部記述的にも確定不能になっている。つまり、デュナンの身体は「バイオロイド+appleseed」の先行した形態としても解釈が可能なわけだ(ここで、ハデスの「バイオロイド臭いと思っていたぜ」というセリフを思い出してほしい)。
すなわち、この段階でデュナンは「ヒト/バイオロイド」の「境界」として存在しているといえる。だからこそ彼女は七賢老に対して「ヒトの原罪を新人類に押し付ける気か!」と叫ぶことができるのだ。
映画の結末でappleseedがすべての「バイオロイド」に解放されたにせよされなかったにせよ、こうしたデュナンの身体に刻まれた未確定性には変わりはないし、また、appleseedを付与されることによって生き残ることができたヒトミが、七賢老の言う「新人類」を体現してしまっているということにも変わりはない。だとすれば必然的にこうした「区分」は混交していき、キメラが生まれていくだろう。
そしてここに、「種差を超えて生き残るということによってのみ、未来は存在する」という徹底的に前向きな姿勢の可能性を感じることができるのだ。
最後に、引用。

このスパイラル・ダンスでは、女神もサイボーグもたがいの相手役として不可欠だけど、いまのわたしが踊るとしたら、迷わずこう申し出ることだろう。
女神よりは、サイボーグになりたい、と*7

女神=アテナよりも、サイボーグです。



とまあ、当初の予定通りに「生殖」に焦点化することはできなかった。さらに、結論部分で身体に書き込まれたアイデンティティに注目したわけだがこれは結局、映画『イノセンス』的な手法である。『アップルシード』はその物語設定のスケールの大きさ(あくまで『イノセンス』と比べたら、です)ゆえに、倫理の発生が個々人の身体において明示的に現れていることを扱いきれていなかったと思う。そのことは、「ヒト/サイボーグ」であるブリアレオスが自らがサイボーグ的身体をもつことに対してあまりにネガティブであり(『イノセンス』のバトーと比較すると一目瞭然)、そのヒューマニスティックな心性ゆえにラブストーリーも単調なものになってしまっていたことに明示的に現れている(あれはあれでいいけれど、物語の軸になることには失敗しているとぼくは思う)。
まあ、面白く観られたからいいや。


*1:これらのプロセスにブリアレオスは組み込まれているわけだが、それはあくまでロールプレイの範疇を出ないためここでは重要視しない

*2:D−タンク内のウイルスが当初は「バイオロイドを滅ぼすウイルス」だと考えられていたということは、これが「主人−奴隷関係の反転」の契機であることを示唆している。ただし、この契機は闘争の結果でも労働の結果でもなく、ただの「設定」であるに過ぎない

*3:ギリアム博士の側にいたアテナは、はじめから計画を、少なくとも上述1のレベルについては知っていたと思われる存在であり、だからこそその翻意を促すために、七賢老は軍を放置してバイオロイド工場?攻撃を「黙認」したわけだ

*4:「サイボーグ宣言」ダナ・ハラウェイ(『サイボーグ・フェミニズム水声社

*5:ここら辺の話は、映画の終わりでappleseedがすべての「バイオロイド」に解放されたのかどうかがぼくには分からなかったこととも関係してくるわけですが・・・

*6:このあたりは以前に読んだ小泉義之『生殖の哲学』(河出書房新社)からの影響が大きい

*7:ダナ・ハラウェイ「サイボーグ宣言」(前掲書)