暖かくなってくると、頭も「ぼんやりすること」を当然の権利のように主張するようになって、もとから自由意志を信じていないところがあるぼくは、それに流されるように流れるように従ってしまう。こういう場合の「頭」っていうのはもちろん「精神」ではなく物質的な「身体」なわけで、だから「行為を決定する」主体として「精神」を置くってことはぼくには縁遠い話なわけだ。それどころかこういう日には「主体って何だよ」と思わずにはいられないし、要するに「ぼく」が「生きてる」ってことがもうなんだか本当に不思議で不思議で困ってしまう。


メモ。
先日のここのblog [愚者読]−『サイファ 覚醒せよ!』宮台真司速水由紀子)を読んだ友人から連絡。何が論点で、なにがこの本の内容とぼくとの相違点なのかがまるで分からなかったそうだ。なので、自分のためにちょっと復習。
簡単に言うと、ぼくがこの本で引っかかった点はただ一つ、「世界」の定義についてだけだ。この本のように「世界」を定義してしまうと、議論はどうしても疎外論的な道筋をたどり、ある種の物語に回収されるようにぼくには思われる。つまりそれは「世界」を定立するのではなく、「定立された世界」との関係性の中に自らの居場所を見つけるという、一種通過儀礼にも似た自分探しの物語である。著者の一人である速水が何度かロールプレイングゲームに言及しているのは偶然ではない。
いくら現代においては「表現」を通してのみしか「表出」にはたどり着けないことを繰り返そうと、そのことは「個人のモラル」ではなく、それが「社会による制約」として所与の環境にぼくたちが生きているということを意味しているに過ぎない(とぼくは思う)。「表現」が類型化を避け得ないものだとするならば、それを突き詰めた形は普通の会社員生活を効率よく過ごすための技法と重なるわけだし、そのレベルを考える限りでは「所与の環境」は「個人のモラル」に内面化されるとは限らない(というか、その必要はない)。「設定」として認識された以上、そこでは「個人」のうちの「プレイヤー」としての側面が突出し、同時にメタ的視線が産出されることになる(視線の二重化)。
まあ、このことは置いておくにしても、この本における「世界」の定義自体がさっき言ったような説話論的な構成を要請し、それが「自分探し」や「うちなる猛獣を手なずけろ!」的なものへと帰結するという、「結論としての単純さ」を導き出している気がしてしまったわけだ。そうだとすれば、要はサイファを認識しそれを個人のレベルに変換する「スキル」の話になる。スキルなき者は他人の表象に乗っかることにもなるし、その危険性はいうまでもないわけだが、(この定義によって「世界」と「わたし」について考えるならば)それもまたサイファにいたる道筋だと言えるのだ。また、こうした意味合いはこの本が「啓蒙書的に」書かれていることとも無関係ではない(タイトルを参照)。
なんというか、もうとっくに覚醒しているからイタイんじゃないの?的なものはどこに行けばいいのかってこと。
というわけで、この定義の部分が引っかかって、それがこの本全般の前提に当たるために、その後の読解が徐々に「話としてはそうなんだけど、なんかしっくりこない」具合になってしまったんだと思う。
フッサール』(門脇俊介:NHK出版)を読了。フッサールの中でも「志向性(信念志向性)」に重点を置いた、入門書的な本。哲学史的な概略しか事前知識がなかったぼくにはちょうどよかった。読了の副産物として、現象学分析哲学が何で相性が悪いのかがよく分かった。
なかなか『エチカ』を読み始められない。