『サイファ 覚醒せよ!』

読みかけだった宮台真司速水由紀子サイファ 覚醒せよ!』(筑摩書房)、読了。このあいだ自分の予感を確認しておいたおかげか、サクサク進む。
50ページまでで読むのをいったん放棄していたときの印象・予感は先日のブログで整理しておいたわけだけど、70%近くはそのときの理解の方向性で議論は進んでいったと思う。その意味で、取り立てて新しさというか、目からうろこ的な内容はなかった。
以下、考えたことを整理しておきたい。


議論は、速水から提出された「第四の帰属」を大きな柱として、それがなぜ必要なのか、あるいはどのようにして可能なのかといった問題意識のもとに展開されている。「第四の帰属」とは、「社会」の外側として定義される「世界」とのかかわりのことである。それは端的には速水の次の発言部分に表れている。

だからこそ、この社会の内側には準拠しない、第四の帰属という概念が必要になります。つまり、この世界で生きることを自明のこととして社会の外側から動機づけてくれる、無条件の理論的な受容とか承認です(強調部分は原著。P6、『サイファ 覚醒せよ!』)

速水の提出したこの問題意識を展開するのは、もっぱら宮台の役割となっている。宮台は「社会システム論の立場から」それを行う。具体的には、その用語である「多元的所属」や「準拠集団」などといった概念を解説しつつ、それらとこの「第四の帰属」との違いを明確にし、「社会の底が抜けてしまっている」現在においてはこの「世界」とのかかわりが大切であることを繰り返し確認する。
とまあ、単純化するとそのような話だろう。こうした論点が本書の後半においては「世界の未規定性」へと接続し、そこから「サイファ」というキーワードが導き出される。

「社会」の随所で露呈しうる「世界の未規定性」を、いわば一ヶ所に寄せ集めて、「世界」の中の特異点(特別な部分)として表象する。この特異点を社会システム理論では「サイファ」(暗号)と言います(P180)

先日の予感のとおり、現象学における「超越論的主観性」もそうした「サイファ」のひとつのあり方として例示されているが、ともすれば「自分がサイファである」という論点にのみ比重を置きがちな速水に対し、宮台はそれに加えて、例えば「桜」や「文化表象としての天皇」などをもこの文脈に乗せることで、その(アクセスのあり方の)複数性を繰り返す。その際に援用されるものが「表現/表出」という社会学の概念である。
それぞれは簡単には「メッセージの有効性」と「文脈拘束的なカタルシス」とに結び付けられるが、近代社会においては後者が抑圧されている可能性があり、それは同時に「言葉」に対して「動機付け」が困難になっているという現状の認識へとつながっている。
と、ここら辺は個人的にもとても納得のいく議論だと思う。実際、言葉に動機付けが伴わずにそれ自体が自動的に展開されていくこと(「動機付けゆえに言葉がある」の否定)とパラレルに、動機付けそのものが常に言葉に回収される*1(「表出」は絶えず意味づけをなされる)という事態もありがちだから。
ただ、本書ではこの「表現/表出」の対立は、そのまま「社会/世界」の議論へと流出している。そのあり方がぼくには少し早急な気がする。例えば、「表出」の作法の重視はそのまま、前提になる(とされる)「共通感覚」並びにその母体としての「記憶資源」の重視となる。そして宮台はこの作法に関連して以下のようにも述べている。

(・・・)日本は、「名状しがたい、すごいもの」に突発的に感染するという、原初的共同性段階ではどこでも見られるシャーマニズム的・アニミズム的な作法を、近代成熟期以降も「共通感覚」として持ち続けています。その意味で、今述べた第三の道にアクセスしやすい圧倒的なアドバンテージ(有利さ)をもっていると思うわけです(P193)

そしてさらに、宮台は続けてこの作法を「日本的作法」と呼ぶ。
ここで考えておきたいのは、先日ぼくが予感した世界にアクセスする際の2つのベクトルについてだ。先に触れた「超越論的主観性」が「内へ」向かうベクトルだとすれば、宮台の「日本的作法」は明らかに「外へ」のベクトル、すなわち「社会」(と言っていいかどうか微妙だけど)を経由するあり方だろう。というのは、「共通感覚」の母体である「記憶資源」は、いくらそれが文化的なディスポジションだとしても*2、事実性の積み重ね(蓄積)にある面で依存しているものだと思われるからだ*3。つまりここでは、方向の違う二つのベクトルが同じもの(「世界の未規定性」)に向かうものとして、手段として等価(ここで「価値」というのも少しおかしいが)だと考えられているのである*4
本書の所々で見られる宮台と速水との間の議論の対立(というか、ズレ)は、こうした点が背景となっていると言えるだろう。アクセスの手段はひとつだがルートは複数存在し*5、そのルートを一本化することこそを注意深く拒まなければならないとする宮台の議論と、すべてが還元されるような統合的な理論と「自分がサイファである」ことを結びつけ、そこから個人の覚醒を重視する速水の観点とのズレはかなり大きなものだとぼくには思えた。
とまあ、なんだか先日のぼくの疑問は手付かずで残っている気がする。この本における「世界」の定義とその未規定性へのアクセスの可能性・蓋然性の話はそれなりに理解できたと思うけれど。あと、例えば上のほうでぼくは「「表出」は絶えず意味づけをなされる」と言ったのだけれど、この意味づけ(もちろん、「言葉」による)の過剰さこそが社会を超えてるんじゃないかと思ったりもする(まあそれは社会問題、あるいは個人と社会とのかかわりの問題に過ぎないのだろうけど)。
とまあ、考えたことはこんなものだろうか。あんまり関係ないけど、自分の留保を脚注で示すというのは、わりと使える方法かもしれない。



追加。本書内で速水は何度か「ドラクエ」や「FF」などのロールプレイングゲームについて、「主人公がサイファを追い求め発見する」ものとして言及している。確かに説話論のレベルでそういう部分はあるだろうが、ぼくとしては「プレイヤー」と「設定世界」との関係性、「プレイヤー/世界」は「設定」でしか繋がれないのではないかという問題意識を明確に喚起するものとしてそれらのロールプレイングゲームを考えたい。このことはすなわち、現在においては「個人」のうちの「プレイヤー」という側面が突出して肥大化しているのではないかというぼくの個人的な感覚に直結するテーマだといえる。
このへんについては、これから徐々に明確にしていきたい。


*1:これは「言葉ゆえに動機付けがある」という場合では、おそらくない。「言葉」とは別次元にある「動機付け」が、社会と強く結びついた「言葉」によって常に説明可能に相対化される事態を意味する。「一回性」が「複数性のなかの一回性」に差し戻されるとでも言えばいいだろうか

*2:ここらへんはおそらくプラグマティズムの議論と参照関係にあるのだと思うけれど、ぼくには知識不足のために込み入った文意はつかめない

*3:ディスポジションといったところで、それに一定の「言葉」を当て込んだ時点でそれ自体が実体化され、ある特定の文脈のみを強調する(他の「表出」を抑圧する)という素朴な意見もやはり無視できないだろう。「蓄積として他の人にも開かれている」ということの危険性には留意する必要がある

*4:蛇足になるが、ここでぼくが「外へ」のベクトルだと言っている議論は、最終的には文化の地平に依存しているためにそう形容されるということをもう一度留意しておきたい。傾向性が喚起する「文化」を通じて、「サイファ」へ「社会」から接続しているではないかという可能性こそが問題なのだ

*5:ルートとしては結局二つしかないとぼくは考えるわけだけど。表象レベルはもちろん別ですが