『経済学という教養』

稲葉振一郎『経済学という教養』(東洋経済新報社)、ようやく読了。というか、まったく読書が進まない現状に腹が立ったので時間を集中的に投下したら、残っていた半分はあっという間だった。なにごとも覚悟だと実感。
以下、ちょっとした感想。


正直言って「経済」とか「経済学」というのはぼくにとって苦手な分野で、その意味でこの本の帯にある「人文系ヘタレ中流インテリに捧ぐ」っていうのに惹かれて読み始めたのが動機の半分くらい。そういうわけなので、取り立てた異論・反論というのはないし、そこにいたるまでの資源もぼくにはない。
内容としては、「古典的ミクロ経済学」「実物的ケインジアン」「貨幣的ケインジアン」などが「不況」に対してどのような態度をとるのかを導入として、日本経済論やマルクス主義、公共性の問題へと切り込んでいくという展開は明快で分かりやすく、関連知識のないぼくでも理解は進んだ。
ただ、文章という点では少し読みにくい。必要以上に小見出しがついていて(経済書というのはこういう体裁をとるものなんだろうか?)、文意の大きなまとまりが分断されてしまっている部分がかなり見受けられるし(もちろん、ぼくの理解が遅いのを棚に上げてだけれど)。
あと、どうしてもいろいろなことに目配せしながら「確認していく」作業の部分は、自らの観点を特定のポジション(例えば、著者が多く共感している「貨幣的ケインジアン」的な考え方など)に置き、そこから他の観点を批判的に論じている部分に比べて(読者としては)理解が遅くなる。当たり前のことだけど。
そういった、まさに「教科書」的な厄介さについて、この本を読みながら考えてしまった。で考えてみたら、この本の最後、第8章の「3.おわりに」で著者が強調していることがこういった厄介さにリンクしているんだと思う。なんというか、「民度」をあげるためにはこうした厄介さは避けられてはいけないけれどそれはめんどくさいし、だったら「分かりやすいほうへ」流れていくのは浸透圧みたいなものだから。
まあでも、例えばこれでぼくの観客レベルが上がったんだとしたら(そしてこういう事態があちこちで生まれているんだとしたら)、そう悲観的になる必要もないのかもしれない。
最後に、一番腑に落ちた一文。

要するに「構造改革主義者」は倫理としての「市場原理」を奉じるモラリストたちなのである(『経済学という教養』)

「倫理」が先にあって、横断的に政治とか文化とかへの(もちろん経済も含めた)政策を規定しているという現状がありえそうで、またそれに対するオルタナティブが育ってなさそうで、怖いなあと思いつつ。