『サブカルチャー文学論』

大塚英志サブカルチャー文学論』(朝日新聞社)、読了。休み休みだったのでずいぶん時間がかかった(だいたい、ちょっとおかしいくらい厚かったし)。ぼくには馴染みの薄い作品もずいぶん扱われていて(例えば新井素子は『グリーン・レクイエム』とあと一冊くらいしか読んだことはないし、石原慎太郎なんかも似たようなもの)事前知識的にはちょっとキツイ部分もあったのだけれど、江藤淳におけるサブカルチャー文学への態度が基軸となっているおかげで構成としてはシンプルで(作者自身の問題意識が前面に出ていて)わりと読みやすかった。以下、ネタバレあり。


納得できる部分について長々と考えてもあんまり意味はないので、ひとつだけ。
大塚は、最後の章「仮構と倫理−大江健三郎と三人の自死者について」のなかで、大江の文学が「想像力」によって構成した虚構に閉じた「キャラクター小説」であることを、大江と江藤との対談などを手がかりとしながら指摘し(また三島由紀夫の小説も同様の「キャラクター小説」とした上で*1)、以下自らの問題意識について次のように述べる。

問題なのはキャラクター小説とぼくたちが現実と感じる領域との関わりである。現実もまた一つの虚構ではないか、といった類の論理ゲームにぼくは意味を見出さない。3Dのコンピュータグラフィックがどれほどにリアルであってもそれとぼくたちの現実とは異なる。映画『マトリックス』で描かれていることは荘子の「胡蝶の夢」と同じことであって、虚構と現実のどちらが「本当」かわからない、というものの言い方は常に人を現実から回避するロジックとしてあっただけの話だ(大塚英志サブカルチャー文学論』)

この引用部分が、大塚の「文学」に対するスタンスを鮮明に反映させていることは間違いない。ここで述べられる「ぼくたちの現実」の重視、それはつまり「構築された虚構の綻び(の瞬間)」をこそ捉えようとする大塚の視座であり、その点において、大塚は江藤を批判しつつ共感とともに自らの「倫理」に取り入れている。そしてその反映として、この章は以下のように閉じられることになる。

そうだ「文学」は「サブカルチャー」だ、と大江は勝利を語るのである。しかしそのことに、サブカルチャーの作り手であるぼくは全く同意はできない。つまり、それはぼくにとって「文学」などはどこにもない、と語られているに等しいからだ(『サブカルチャー文学論』)

こうした議論の流れについて、ぼくにはどうこう考えるところはない。ぼくが気になるのはあくまで初めに引用した部分である。虚構を現実の対概念として持ち出し、この2つの間の連絡・照応関係を重視するという立場はシンプルだし、説得力がある。この論旨で肯定されるのは前者が(あるいは「前者としてしか成立し得ない文学」が)後者をかろうじて照応するという、その契機である。
しかしながら、ここでぼくがどうしても考えてしまうのは次の2つのことだ。
ひとつは、「現実もまた一つの虚構ではないか」という言葉に意味を見出せない大塚はしかし、「虚構もまた一つの現実ではないか」という言葉をも「論理ゲーム」としてスルーしてしまうのかということである。この2つの言葉は、対概念を無効化するという意味においては同じかもしれないが、その回収先に大きな違いがある。前者がいわば「戯れ」へと帰着する可能性が高いのに対し(その点で、これは論理「ゲーム」かもしれない)、後者においては「現実」が肥大化する。そしてこのことはこの本のなかでも触れられている「フラグメント化」に対応した事態を引き起こす要素足りうるのではないだろうか。そういった意味において、ここで述べられている「ぼくたちの現実」は少々ぬるいように、ぼくには感じられた。
もうひとつは、この引用部分で大塚は「胡蝶の夢」についてネガティブに語っているが、例えば同様に夢に惑わされながらも(夢と現実の区別に戸惑いながらも)懐疑を繰り返すことで、「虚構と現実のどちらが本当かわからな」くても揺るぐことのない「私」の存在を取り出したデカルト的な可能性はどのように考えればいいのかという、ぼくのまったく個人的な論点である。
ただ、この点についてはまだどうやって考えていけばいいのか、さっぱり見通しがついていないので、ここではただメモしておくだけにとどめる。



最後に、2番目の引用のようにして本を閉める大塚と、その批判の俎上に載る大江とが、ともに「戦後民主主義」というタームで括られうる(というか、それに沿う形で自らの創作を構成している)という事態はとても面白いと、個人的には思った。


*1:同時に大塚は、三島由紀夫と大江との違いを「三島は自身の実存のキャラクター化をそこに伴う点で特異だった」点に求めている