『花とアリス』

少し映画づいている。せっかく見たのでなにか書いておこうと思い、今回は『花とアリス』。事前知識はほとんどなしで見た(まあ、そうはいってもTVCMで流れてた「キットカット」の映像くらいは覚えていたんだけれど)。
まずはじめに断っておくと、ぼくはいまの段階では岩井俊二の熱心なフォロワーではない。いままで見たやつは『打ち上げ花火、・・・』と『Love Letter』、『スワロウテイル』に『四月物語』くらいで、四本も見てれば十分何か語れるのかもしれないけれど、内容を覚えているのは『四月物語』だけそれもかすかに。印象といえば、カメラにソフトフィルターかけているようなイメージ(画的にも、内容的にも)。『スワロウテイル』なんかには暴力描写もあった気がするんだけどそれもぼくの記憶のなかではぼけぼけ。
そんな愛のない(だけど嫌いなわけではない)感覚を頭に浮かべて、館内が暗くなるのを待っていた。以下、ネタバレ少しあり。


ストーリーは単純。原稿用紙半分くらいでまとめることができるだろう。これはこのあいだ少し考えてみた『イノセンス』と同じ。ただそれが意味するところはまるで違う。『イノセンス』の場合、キャラクターの執拗なまでの問いが世界設定とあいまってあるテーマに収斂していたといえるけど(ぼくはそう思う)、『花とアリス』にはそういった意味的な問いかけは感じられない。つまり、この映画は見た人に「何かを考える」ということを誘発しない。このことはざっとネット上を検索してみてもこの映画に対する批評(というか、それについて何かを考えた文章)が少ないことからも明らかだと思う。
だから、ここでストーリーの柱のひとつになっている(と思われる)「記憶」について、例えばアリスがいまは別々に暮らす父親との記憶を、部分的な「記憶」喪失になっている(と思い込まされている)「先輩」に刷り込ませることで再生(play)していることや、そのplayを通して、時間を越えて誤配されることもなくアリスの元へ届いてしまうハートのエース(愛のカード)がもたらすささやかな感動の構造について語ったところで、それはおそらくこの作品にとって本質的じゃないと(ぼくには)思われる。
じゃあこの映画については何が語られているのか。ネットを見てまわると、例えば「岩井俊二は女優を三倍綺麗にとる」みたいな表現が結構あって、それはカメラワークの問題だけかというとそうじゃないらしい。「物語ではなく、女優が語られるという事態」そのものは別に珍しくもないのだけど、「その女優のファンではない」にもかかわらず、キャラクターではない、「女優そのもの」が語られる事態というのは、(悪意がある場合を除いて)珍しいんじゃないかとぼくは思う。(批評や考察ではなく)そういった言葉を誘発させてしまう映画というのは、いったいなんなんだろう*1
こういった状況を考えるのはぼくはどうも苦手なんだけど、それでも『花とアリス』に即してその理由を挙げようと思ったら2つほど出てきた。
ひとつは「等身大」ということ(嫌いな言葉だ)。この物語の2人の主人公はそれぞれ、演じる役者と年齢的に近い。さらに、この映画の一番大きなフレームは、「(部分的に記憶喪失であると思い込んでいる)先輩の前で、新たに設定されたそれぞれの役割を演じている」という、いわば演劇(芝居)の上演とでも言うべき枠組みだ。単純さを承知で言えば、このストーリー上の二重性がそのまま映画自体にも適用され、映画について語る言葉は役者について、あるいはその撮られ方についての言葉に容易になだれ込んでしまう。演じる者の日常(もちろん、あくまでイメージ)を映画のなかの日常にずらす(あるいは、その逆)ということ。それを意図的にやっている印象を受けた。
もうひとつは、「やさしい世界」ということ。この映画には残酷さがいっさい設定されていない。物語を牽引するための「謎」もないし、主人公その他を根本的に傷付けるような他者もいない。誰かを傷つけるということもない(終わりあたりの花が泣くシーンでだって、もちろんだれも傷ついていない)。「記憶喪失」についても、「設定したのは誰だ」と(花に)責任を問う声は上がらない。映画のなかで主人公たちは「設定」を自覚した上で、それを軽々と受け入れ、演じる(例えばアリスと先輩との最初の会話シーンを浮かべてみよう)。その妥当性は問われない*2
ますますうがった見方になるけれど、たとえばアリスが父親に中国語で「I love you」(これが英語であることもポイントなんだろうな)というシーンを見てると、父親の言葉を引用して自分の気持ちを伝えるその婉曲さは照れ隠しだけではなく、そういった形(つまりあらかじめ設定された世界にある材料でやっていかなければならないということ)がそのまま自分の世界との関わり方に反映される(playのなかで先輩にその言葉を使う)という、繊細さと隣り合わせの不自由さをぼくは感じる。また、それが少女たちの映画をリアルなものにしている。
そしてこのレベルが、ぼくが『花とアリス』を考えることができるギリギリのラインだ。
なぜなら、こうした不自由さは(ぼくには)納得できるから。「社会をまるで設定のように生きる」のはなにも映画のなかの登場人物に限った話ではなく、いまや現実にもそういった人は溢れているという実感が(あくまでぼくには)あるという理由で。
しかしながらもちろん、「誰が設定したのか」への問いが欠けているということ、あるいはそこがスルーされて責任が発生しない「やさしい世界」が現実に成立してしまうことは恐ろしい。そこは、深い諦念を隠蔽できたものだけが生き延びられる「残酷な世界」でもあるのだから。
とまあ、例によって話がずれていきそうなので、おしまい。



余談だけど、この映画のなかの広末涼子の扱いは面白かった。広末演じる編集者が恋人(?)との電話のために席をはずしているうちに、アリスは見事なダンスでカメラマンその他を魅了する。全てが終わった後で、編集者(広末)は席に戻るがとまどうだけ。
上で触れたことをそのまま適用すれば、これはやっぱり強烈な皮肉になるから。


*1:思い出してみれば、ぼくは「中山美穂が綺麗に撮られている」という友人の熱心な言葉で『Love Letter』を見たのだった。岩井俊二の周りにはこの手の言葉が溢れているらしい

*2:そういった意味で、これは『イノセンス』の対極に位置する映像作品だ