『イノセンス』(続き)

(3)
以前このblog内で確認したことだが、「理性」は『方法序説』においては「良識」であり、万人に公平に配分されている資源的能力である。これは能力であるという点で「精神(心)」とは別のものであるということは確認する必要がある*1。すなわち、ここで処理しなければいけないことは次のような展開の先にある。
・機械は「理性」を持たない
・同様に、動物も「理性」を持たない
・動物は「精神」(動物精神)を持つ
・人間は「理性的精神」を持つ
・「理性」は「すべてのこと」の意味に対応した答えを出せる、普遍的能力である
・『イノセンス』の設定においては、電脳その他の工学的な発展が、ボリュームのレベル(器官の配置のレベル)で「理性」を代替している
・よって問題は、「機械」が「精神」を持つかどうか、である
ここからは極論になるが、精神から能力としての理性を引いたところに残るなにものか、そこに焦点をあわせなければならないとぼくは思う(足すとか引くとか、算数じゃないのだけれど・・・)。そして「ゴースト」が示唆するものとはそのようななにものかである。関連していえば、「ゴースト=自意識(自己意識)」という捉え方はただベクトルを意味しているという点で間違っているのであり*2、問題となるのはそのベクトルの生じる場、基点なのだといえる*3。『方法序説』に即したとき、それはコギトの場面(存在の場面)を形成する何かであるだろう(コギトが自己意識でないことは言を俟たない)。
イノセンス』終盤、(結果として)救出した少女にバトーが声を荒げた理由はここにある。「ゴーストコピー(ダビング)」されたアンドロイドはバトーにしてみればもはや人形ではなく、それらとサイボーグである彼自身とを分かつ区分は概念のレベルでは消えうせているのだ。先に触れたとおり、この映画の設定内ではあらかじめ「理性」が工学レベルで乗り越えられている(代替されている)。さらにこの場面で、暴走したアンドロイドには「精神」までもが与えられていたことが分かるわけだ。自分が助かる手段としてそのような存在を次々と「自殺」(「自壊」ではない。そう、このレベルにおいては「殺人」が姿を現している)させていく。「倫理」が更新されていることに気がつかない無頓着さ、バトーはそこに「同じ存在」として声を荒げていると言うことができる*4
と、デカルト的な心身二元論を補助線にして、一応このような倫理の更新の場面を『イノセンス』のなかに捉えることができた。でももちろん、こうした考え方は片手落ちだと分かっている。
まず、「ゴースト」とは何なのか、そこに分け入る探求力が欠如していること。この映画の場合、上のように考えた「ゴースト」が「コピー」されているという安易さ(矛盾)がある。その安易さを飲み込んだところにさっき触れたような倫理の更新がある(あるいは倫理の更新のために「ゴーストコピー」という安易さが設定されている)わけだが、この新しい倫理自体が旧来の人間観をそのままサイボーグに移植したような内容しか持ち合わせていないのもキツい。ダナ・ハラウェイの、「理論的にも実質的にも、人間は機械と生物の混合体と化した。つまり、わたしたちはすでにみなサイボーグなのだ」という言葉の裏にある、「サイボーグの倫理」とでもいうべきもののヒントも見えない。人間中心的な価値観(倫理観)をあぶりだしているものの、新しい何かが発見されているわけではないのだ。
ただ、ひとつだけ気になった点はある。
最後の、「トグサの娘」と「バトーの犬」との対比についてだ。この点については検死官ハラウェイとの会話とあわせて、いろいろな読み方が可能だが(例えばこの考え方など)、ぼくはここらへんをめぐってはこんなふうに思った。つまり、トグサにとっての娘もバトーにとっての犬も、ともにそれぞれにとって存在することに(あるいは、愛することに)条件のないものであるということだ。劇中再三トグサは家族について言及し、バトーはハックの恐れを知りつつもうまいほうのドッグフードを買う。彼らにとってそれは条件のない、当然のことなのである。条件という外在的な記述を受けつけないこと。このことは「ゴースト」の問題に直結している(これはもちろん身体のアナロジーでもある)。
ここに「デカルトの人形」の挿話を重ね合わせてもいいだろう。「自覚している/していない」は問題じゃないとぼくは思う(それはトグサ=ドクサからの連想のレベルだ)。それぞれのそうした(「娘と」あるいは「犬と」という)存在の形態の必然。そうした形態から離れていくバトーの身体。そこらへんをぼんやりとイメージしていたせいか、ラストシーンのバトーとトグサがまるで「ゴースト」を抱いているように、ぼくには見えてしまった、一瞬。
とまあ、『イノセンス』を見たと言いながら、『方法序説』をきっかけに思考があちこちに散らばってしまった。「少佐」について触れなかったりいろいろと不備も多いけれど、それはまたいつかこの映画を見るときのためにとっておこうと思い、おしまい。


*1:例えば、デカルトは『方法序説』第五部のなかで動物は理性を持たないと述べているが、動物が精神を持つこと(「動物精神」という用語の使用)は前提としている

*2:「志向性」と機械論とは相性が悪いものだと聞いたことがあるが

*3:自意識というのは基本的に自己言及のことであり、言及はその構造上外部を経由する(迂回)。迂回してしまったら、それはデカルトの徹底的な懐疑に耐えられるようなものではなくなる

*4:以前に触れたが、バトーはこうした点には初めから自覚的である